かもしれないブログ

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人口減少時代をどう生きるか。

日本の総人口は、2006年をピークに減少に転じており、

人口減少に伴う社会変化はこれまでに経験した事のない、

有史以来のものとなる。

国土交通省国土計画局による「わが国の人口の長期的推移」によると、

鎌倉幕府成立時で696万人。

室町幕府成立時で818万人。

江戸幕府成立時に1227万人。

日露戦争時で4780万人。

所得倍増計画のあった1960年には9000万人となり、

その後も一貫して増え続け、2000年には1億2774万人となる。

が、その後一転して減少に転じる。

このトレンドは、止めようがなく、いかに止めるかよりも、

いかに人口が減少する社会を生きるか、社会としての機能を維持していくか

を念頭に置いた方が良さそうである。

社会を維持する事を考える場合、

何を以て社会とするかが問題になるが、

ここでは、「死者を弔う生活集団」を社会と呼びたい。

人間を人間たらしめているのは、道具を使う事でも、火を利用する事でもない。

言葉を話すことでも、読み書き算盤の能力でもない。


人間を人間たらしめている事。


それは、死者を弔う事である。

死者を弔わなくなった社会は、想像するだけでゾッとするが、

ここから先の人口減少を考えると、それは遠くないように感じられる。

また、老若男女を問わず、孤独死の問題は、既に現実に存在する。

一人の死者を弔うには、少なくとも一人の生きた人間が必要だ。

必ずしも一対一と考える必要は無いが。

一人の人間(子供)には、親にあたる人間(父・母)がいる。

子供の役割は、親の面倒をみることである。

親に世話されることでもある。

ある時点で、世話する側と、世話される側が入れ替わるが、

それは人によって時期が異なるため、いついつとは言えない。

親の世話をする場合、子供が一人っ子の場合は一人で二人の人間の世話をする事になり、

それは金銭的に、或いは体力的に、恵まれている場合にのみ可能であるように考えられる。

親が高齢化すれば、それを金銭によって負担を軽くする事は可能である。

しかし、問題はそれが誰にでも可能かどうか、という事である。

そのサービスを金銭によって利用する事ができる人間が、どれだけいるだろうか。

また、その人間は、自分が高齢化した時に誰に世話をしてもらえるだろうか。

そこでもまた、そのサービスを利用できるだけの経済的余裕があるだろうか。


組織の組み方には、二通りあると考えれれる。

一つは、強いものを中心に組織化し、強い者のみが生き残る、勝ち残る組み方。

多くの組織は現在、この組み方で組織化されている。

もう一つは、弱いものを中心に組織化し、弱い者を護り育てることを目的とした組み方である。

このような組織の代表的なものは、「家族」である。

また、宗教・教育・医療なども本来はこの組み方で組織化されていた(はずである)。

人間が「家族」というものを元に生活し続けてきたことは、意味があるはずである。

その意味は、おそらく人間が弱いながらも種として生きていく為の知恵なのではないだろうか。

組織は、強いものを中心にすると短命になり、弱いものを中心にすると長命になるらしい。

強い者のみが生き残れる組織では、文字通り弱い者は淘汰され、最終的に最も強い者だけが生き残ることになる、

が、そうなった時点で既に組織ではない。

生き残る事、勝ち残ることを目的とした組織は、その目的によって、最終的には誰もいなくなってしまうのである。


他方、弱い者を護り育てる場合は、より多くの多種多様なメンバーが必要となる。

弱い者を中心に組んであるが、成員の中で誰が「弱い」かは入れ替わる。

その為、弱い者が弱いままである必要はない。

助けを求めるものを中心に組めばよいし、この場合はいつ自分が弱くなるか

という恐怖も緩和される。

強いことは必要ではなく、過剰に強いことは更に必要ない。

弱いものよりも強ければ、その場合はそれを助ける。

それでよいのである。


それが、「家族」というものではないだろうか。


組織に問題がある場合、それはさして問題ではない。

というと、あれだが、

要は、問題が、きちんと「問題」であると認識されている事が大切なのである。

逆に、問題があるにも関わらず、それに気付かない事。あるいは、見て見ぬふりをする事。

それが最も危険である。

問題が問題として、認識されているならば、それは対処のしようがある。

が、認識されていない問題は、その内に危険性を孕む。


往々にして、組織内において放置されている問題があるが、

それは成員達の怠惰によるものではない。

そうではなくて、努力の賜物とみるべきものなのである。

問題を、問題として維持し続ける事は、必ずしも容易ではない。

問題として存在している以上、それは多少なりとも組織の運営に支障があると考えてよい。

その支障を放置してでも得られるメリットが、成員達の間で共有されている。

そうでなければ、その問題は、問題としてあり続ける事は出来ない。

もし、そのメリットが弱い、あるいは無い、と認識されたならば

どこかでその問題は、解消されているはずである。

もしくは、問題として認識できてはいるが、それを解決するだけの能力が無い。

そう考える場合、現行の成員ではその問題の解決は難しいと考えるのが妥当である。

何せ、意識のどこかでその問題の解決を望んでいないのだから。


組織には、それぞれ多種多様な目的がある。

目的を成員間で共有しているものを組織と呼ぶ。

企業の目的は、利益を出すこと。

医療の目的は、怪我人・病人を治療すること。

教育の目的は、学び方を学び、人を育てること。

宗教の目的は、人を救うこと。

企業の中には、地域貢献・社会貢献を目的として挙げるものもあるが、それはお題目程度と考えたほうがよいかもしれない。

地域貢献・社会貢献。

これは、おそらく魔法の言葉である。

とても大事とされているが、大きすぎて実感が持てないのが私の感想である。

これは、他のどの組織にも目的として掲げるに値するものであるように感じられる。


真に地域貢献・社会貢献を目的とするならば、

それは市場を焼け野同然に焼き払う戦略ではなく、

多種多様な生物が生きるジャングルの中を行くような、その種のひとつとして生きるような戦略になるはずである。

焼き払うのはいいが、焼き払ったらその焼け野原の面倒を見続ける責務が、その企業にはある。

これからの時代、一人一人の時間の使い方、ひいては生き方が問われる時代になるだろう。

これまでのように、がむしゃらに働き、経済成長拡大拡張路線では通用しない時代に突入する。

それは、次第に細くなる道路を猛スピードで突き進むに等しい。

その道路には、舗装されている面もあれば、土・岩がむき出しになっている部分も、

水浸しな部分も、穴だらけの部分もあるはずである。

そこをこれまでと同じかそれ以上のスピードで進むのは、あまり利口とは思えない。

ここから先に必要なことは、速く進む事ではなく、転ばないことであり、もっと言うと、死なないことである。

死なないことであり、死なせないことであり、死ぬことであり、死なせることである。

人が安心して、旅立てる世の中。安心して冥途へ行ける世の中が、暮らしやすい世の中である。

日本の総人口を、人間の一生に例えると、ここまでは成長期であり、青年期だったのである。

しかし、ここから先は壮年期そして急激に老年期に入る。

年齢に相応した生活様式があるように、総人口に相応した生活様式があるはずである。

消費経済を主体とした世の中は、長い歴史の中の、奇跡のような一時代だったのである。

よい時代であったかもしれないが、時は流れていくものであり、それに伴い人間の生活感・人生感も変化していくものである。

経済成長を猪突猛進、猪のように突き進む時代。盲目的に消費する時代は既に過去のものである。

人間は何のために、人間であるのか。

それは、より多く生産する為でも、より多く消費する為でも無い。

経済成長に身を捧ぐ為ではない。

センスの良い服を身にまとうでも、センスの良い音楽を聴くでも、ない。

美衣美食美亭の中で生活する為ではない。

良い戒名の為でも、高いお墓の中に入ることでもない。

人間は、たった一度の人生・一回性の人生の中において、

生れてきてよかった、と思える事。

ここで、この人に出会えて良かったと思える事。

その為に生きているのではないだろうか。

生まれ変わりがどうの、あの世がどうのは、この際どうだってよいのである。


一瞬の重みを感じる事が出来る時、それだけでその人は、その人の世界を感じているのであって、それはとても尊いものなのではないだろうか。

強制されるものではなく、内面から沸き起こるその感覚とは一体何なのだろう。


世の中、プロの仕事・プロの○○。一流の○○。

そんな言葉であふれているが(これも一過性のものとは言え)、人間は何かのプロである必要は無い。

否、生きているだけで、もう十分プロなのである。

そもそもプロとは他人に強制されるものではなく、自らの内面に基づくものの結果として存在するものである。

他人に強制されている時点で、もはやそれはプロではない。奴隷である。

自らの内面に従って、行動すること。


他律ではない。


これからの時代、自己実現という余裕が、社会の中にどれだけあるか。


人はそれぞれの立場で、それぞれの人生を生きるしかないが、


それがどういう意味を持つのか。


僕はまだそれを知らない。