かもしれないブログ

月一更新です。

今年読んだ本について。

今年は沢山の本を読んだ一年だった。

視力も若干下がったように思う。

ジャンル問わず、読みたいものを読みたいときに、とやってきた。

何冊か挙げていきたい。

まずはコレ。

「できる上司」のものの言い方―その「ひと言」をやめるだけで、部下は伸びる!(East Press Business)

「できる上司」のものの言い方―その「ひと言」をやめるだけで、部下は伸びる!(East Press Business)

ハウツー本だけれど、読んでいると非常に考えさせられた。

他人に言われて嫌な言葉は色々あるけれども、自分の言葉使い、スタイルを反省してみると、やってしまっている。

しかも、自覚症状が無い。悪いと思っていない。その言葉を言われて自分は嫌だったのだが、それと全く同じ言葉を他人に対しては平気で使えてしまう。使っている感じが意識にすら上ってこない。

どういう時に、そういった言葉を使ってしまうか、そういう人間に自分がなってしまうか、を考えてみた。
箇条書きすると、
・自分の立場が見えていない時
・自分の能力を低く見積もっている時
・他人の能力を低く見積もっている時
・他人の物事に対する姿勢を低く見積もっている時(どうせ嫌々やっているのだろう、のような感じ)
・はやくこの場から立ち去りたい時
・浮足立っている時
・肩に力が入っている時
・無理に自分を駆動させている時
・腹に力が入っておらず、「落ち着き」がない時
・自分に意識を当てている時

他人の行動の仕方、考え方というのは、本来完璧には理解できないものなのだけれど、
焦りが出てくるとその事を忘れてしまう。

自分自身の物事に対する姿勢が、周りに影響してしまって、全体のパフォーマンスを下げてしまう。

つまり、物事を具体的に進める前の段階、物事に対する姿勢が、その後の行動に影響を与えているように思う。

それはとてもツライものだ、という前提があれば、物事を進める最中で、人はそれにスポットを当てながら実行していくので、それはとてもツライものだ、という結論に結びつく。

逆に、同じことを進めるのであっても、例えば外回りならば「色々な人に会える」という前提が第一にあれば、それにスポットを当てて行くことで、そこから得られるものも、また違ってくるように思う。

ただツライだけじゃなくなる。物事を何のために進めるのか、どういう意味があるのか、始める前にその意味を把握する事は出来ないし、する必要もないのだけれど、それが自分にとって、また周りにとってどういう意味があるのかを予め決めておくことは大切だと感じた。

人に接する際も、他人から「あの人はああいう人だ」のような噂を耳にすると、それが色眼鏡というか、先入観になってしまって、その後ずっとそれが付きまとう。会うや否や、生理的に受け付けないタイプの人というのはいるのだけれど、そうでは無いタイプの人でさえ接し辛くなってしまうように感じた。

人は予め起こる事を予想しておいて、それに現実を当てはめていくのではないかな、と感じた。同じ事、同じ人と接していても、そこから何を得るかは、人によってさまざまなのは、つまりそれに対する前提の姿勢が異なるからじゃないだろうか。

人は自分自身にとってメリットがある、と考えた行動しか取らない。
自分の道は自分で切り開く、という歩み方と、そうではない歩み方。

歩んでいるうちに、目的地が変ることだってある。何もかもか虚しく、確実なもの、確実なゴール、万人が目指すべきゴールがなくなってしまった(と僕は震災以降感じている)いま、自分が今後どのように生きていくのか、考えさせられる。

少し前は、その万人が目指すべきゴール(これは自分が勝手脳内に作り上げた妄想でしかない)に対して、自分は随分遠くに居ておそらく生きている内にはそこには到達し得ない被害者としての立ち位置に身を置くことで、それに対して憤る事で自分の位置を特定していた。

ここで言うそのゴールとは、つまりいい大学・いい会社・結婚・マイホーム・子供などその路線の上のそれだった。安定していて、モテてみたいなことも含めて。

でも、そうではなくなって(社会はいつも不安定だったけれど)、壊れるはずがないと考えられてきた幾つかの堅牢な城が音もなく崩れ去り、その城を目的地として、自分の座標を特定する事が出来なくなってしまった。

自分はどうしたいのか、どこで誰とどのように、何をしたいのか、何が出来るのか、を問われた一年だった。
これをしていれば大丈夫だろう、という目算が立たなくなって、自分が歩んできた針路でさえも、元を辿る事が出来なくなった。

外へ出れば、新しいチェーン店が幾つも開店していくけれども、利益を求める会社ばかり(これは当然だけれど)。気が付くと自分自身でさえも、利益を挙げる為にお客さんにいい顔をしていた(お客さんを人としてではなく、財布を持った生き物としか見れなくなっていた)。その時は、恐ろしく感じた。

高齢化していくと、自然と高齢単身世帯が増えるけれども、それすらマーケティングの対象でしかなくなり、只の数字に置き換えられる。そこから如何にしてお金を出させるか、という事に知恵が絞られる。そんな社会はどこか歪んでいる。

人間は本来、数として数値化される以上のはずなのだけれど、そこでは一人の人にどれだけの財があり、また如何にしたらその財を効率よく自分の所へ移動させる事ができるのか、只その事の為に知恵が使われる。そうなってしまったら、人間の尊厳も何もない。孤独だ。

悲しくなってしまう。

孤独は悲しい。

悲しみは、人と完全には共有できない。

人間は本来孤独であるという事。
しかし、自分が活動的でいる時は、そういった事を忘れてしまう。人間の深さ、を蔑にした時に、この本に書かれた言葉は発せられる。

物事を進める上で、幾つかあると思われる大切な事のうちの一つに、

その物事を進める前の「前提条件」「前提として自分がとる姿勢」があるなと感じた一冊となった。