かもしれないブログ

月一更新です。

墓の掃除、ラーメン、稽古など

今日は母方の祖母の家に行って簡単な家の掃除と墓掃除をしてきた。

天気が良く、少し暑いくらいだった。

そのあと、道の駅でラーメンを食べた。

えごまラーメンというのを売り出し中で、それを頼んだ。

前にも食べたことがあったような気もしたけど、記憶が曖昧だったので注文してみた。

ラーメンを食べていると唐揚げも食べたくなり、それも追加で注文した。

えごまラーメンを食べると、前に食べたことを思い出した。

そして母から「前にも同じパターンだったんじゃない?」と言われた。

そう。前回もえごまラーメンを注文して、時間差で唐揚げを追加したんだった。

すごい安定感。

 

前と同じ味でした。唐揚げは味が付いていなくて、ソースをかけたけど、前回もソースをかけて食べていたと思う。

帰ってから時間があったので道場で稽古。

調子が良い時もあれば悪い時もある。

不思議な好調も不調もある。

不思議な不調が続くとスランプになる。

そこから抜け出すのがとても難しく、またやっていることが楽しくなくなる。

「わかった」と思うとわからなくなり、「わからない」と思い何も考えずにやるとわかることもある。

今は比較的持ち直してきたというか、きちんと教室に通って一人の先生から習うことを大事にすることで、欠かしてはいけない部分をなんとなくだけれどつかむことができてきているように思う。

前回、不思議な不調に数年はまり込んだときは、その経過としては、直したいところがあり、それに対してのアドバイスがあり、またその時は昇段したいという気持ちが強くあり、学べるものは何でも学ぼうという、貪欲さがあった。

それはよかったのだけれど、不特定多数の「先生」からアドバイスを受けることで、その一つ一つを身に着けることを意識していく過程で、一度に一つのことを直していけばよかったのだが、一度に二つも三つも直そうとしてバランスがおかしくなり、結果的に「前の方が良かった」という流れになった。

なんでもそうだと思うけれど、物事は後戻りができない。

一つ試してダメだったから元に戻そうと思っても、後戻りは容易ではない。

ほとんど不可能に近い。仮に同じ地点に戻るにしても、同じ道を通って帰ることはできないと思う。

前におられた先生から「いろいろな人に聞くよりも、一人の人から学んだ方がいいよ」と話されたことがあった。その時は「はい、そうですね」と軽く返事をしていたけれど、その後にこのような流れで長期の不調になった。

身体を使っての稽古は、下手をするとケガをすることもあるけれど、ケガをしたとしてもその責任はだれにも取れない。

いろいろ試行錯誤する中で、苦しい時間を過ごした。何が正しく、何が正しくないのか。スポーツについての本も買って読んでみた。

参考にしたのは、野村克也監督や和田毅投手、青木翔氏、吉井理人氏などの著書。

僕は野球は全く分からないけれど、物事を進める中で大事になるところは共通している部分があり、とても良かった。

スランプに陥った選手がどのように復活したのか。それを知りたかった。

どのような選手にも悩む時期があり、また人の動作はとても繊細で、少しの変化で全体が変化してしまうことや、一旦取り入れてしまったものは、捨てることが容易ではないこと。教えること、教えられることについての覚悟のようなものが必要だと書いてあるものもあった。

何かを受けるということは、それについてのリスクまで引き受けることだ。

 

稽古場では、また違う先生からは「悩んでるときに、いろんな手が差し伸べられると思うけど、それは全部藁。溺れている時に掴むのはすべて藁だと思った方がいい。いろんな人がいろんなアドバイスをくれるかもしれないけれど、それをそのまま受け取るんではなくて、捨て去る勇気も必要。その場では聞いておくけど、それを取り入れるかどうかは考えた方がいい」と話された。

それは、僕が苦しみながら試行錯誤していた時に出会った話。

 

今日は不思議な好調の日だった。外してはいけないかなというところを押さえながら動作し、結果は良かった。同じようにしているつもりでも全くダメな日もある。

そういう日は、取り返そうとしてもどんどん沼にはまっていく感じで、何がおかしいのかわからず、体力がなくなり、思ったように動けなくなるところまでいくこともある。

 

不調な時は、スパッと諦めることも大事なのかもしれない。稽古場にいない時にㇷと思い付いて、これかな?っていうのが良い時もある。

 

今日は稽古場でざわざわ感があり、早めに切り上げてきた。

ざわざわ感がある時は、早く切り上げるに限る。

稽古場で起こることは全て正しい(ケガをしない場合を除く)と決めてやっている。

心や体にケガを負いそうなとき、負わせそうな気配があるときは、その場にいること自体が正しくない場合がある。

 

一時期は昇段が目標だったし、今もそれは変わらないけれど、それに捉われることで何かを失っていないか。そこに注意しながら、やっていきたい。