潮の流れ。
最近、
原発関係の本を買っている。
と言っても、あの日の後に出版されたもの。
それ以前から、市内の書店には原発を取り上げた本が並んでいたのだ。
原発の本は、推進派・反対派。
この二種類しか置いてなかったような気がする。
科学系の棚に行けばあったかもしれないけど、
自分みたいな人間がふらふらと寄りつくところには、
そのどちらかの本が置いてあった。
最初は、反対派の本が平積みされていたのが記憶に残っている。
その後、推進派の本が、
その隣に平積みされるようになっていた。
反対派の本を並べるのは、勇気がいったことだと思う。
そこそこ売れていたようだ。
推進派の方は、おそらく団体で買ったりもしていたんじゃないだろうか(邪推かもしれんけど)
でも、最近の報道を見ていると、そういうのがあってもおかしくない。
これは、あくまで、あの日以前の話。
その後、
あの日が来て、
書店の本棚は大きく変化した。
いろんな専門家やら批評家やら学者やら、
が、
本を出し、
文章を書き、コラムを書き。
何なんだ、これは。
というのが正直な僕の感想だ。
だいたいが、批判的なメッセージで、
そもそもこういう危険性は以前から考えられていた。
などと書かれていると、
ハラワタガ煮えくり返りそうだ。
そういう自分も含めてなのだが、
何故、こうなるまで放っておいたのか。
という事なのだ。
おそらく、いま初めてそういう関係の本を出す人は、
あの日が来なければ、
そういう本は出さなかったのだろう。
その本の売り上げは、どこへ行くのか。
何故、あの日が来る前に
その本を書かなかったのか。
僕は、本屋で、そのコーナーに立つと、そう感じるのだった。
何かを批判することは難しい。
批判している限り、自分は正しいはずだという立場におり、
また、被害者のポジションを保てるからだ。
自分も同罪だという認識。
自分も間違っているかもしれないという認識。
それが保てなくなる恐れがあるからだ。
組織に問題がある場合、
その問題の為に、自分が不利益を被った時。
どういうポジションを取ればいいのだろう。
謝るか。
謝って、それで済むのか。
問題の解決のためには、謝るだけでは不十分であり、
問題がどこにあるのかを認識し、それをただす必要がある。
問題のフォロー体制。
それが出来ない場合、
上に、それを解決する気が見られない場合、
どうすれば良いのだろう。
残る人間には、負担が来る。
逃げる人間は、負担から逃れられる。
のだとしたら、残って問題解決にあたるのか。
でも、それが自分の努力ではどうにもなされないとしたら?
そもそも、そういう場を選んだ自分に否があるのだろうか。
自分は、もっとそういう感覚を身に着けた方が良いと感じた一日だった。