かもしれないブログ

月一更新です。

潮の流れ。

最近、

原発関係の本を買っている。

と言っても、あの日の後に出版されたもの。

それ以前から、市内の書店には原発を取り上げた本が並んでいたのだ。

原発の本は、推進派・反対派。

この二種類しか置いてなかったような気がする。

科学系の棚に行けばあったかもしれないけど、

自分みたいな人間がふらふらと寄りつくところには、

そのどちらかの本が置いてあった。

最初は、反対派の本が平積みされていたのが記憶に残っている。

その後、推進派の本が、

その隣に平積みされるようになっていた。

原発のある、この敦賀市で、

反対派の本を並べるのは、勇気がいったことだと思う。

そこそこ売れていたようだ。

推進派の方は、おそらく団体で買ったりもしていたんじゃないだろうか(邪推かもしれんけど)

でも、最近の報道を見ていると、そういうのがあってもおかしくない。

これは、あくまで、あの日以前の話。

その後、

あの日が来て、

書店の本棚は大きく変化した。

どの雑誌も、どの本も、原発原発

いろんな専門家やら批評家やら学者やら、

が、

本を出し、

文章を書き、コラムを書き。

何なんだ、これは。

というのが正直な僕の感想だ。

だいたいが、批判的なメッセージで、

そもそもこういう危険性は以前から考えられていた。

などと書かれていると、

ハラワタガ煮えくり返りそうだ。

そういう自分も含めてなのだが、

何故、こうなるまで放っておいたのか。


という事なのだ。


おそらく、いま初めてそういう関係の本を出す人は、

あの日が来なければ、

そういう本は出さなかったのだろう。


その本の売り上げは、どこへ行くのか。


何故、あの日が来る前に

その本を書かなかったのか。

僕は、本屋で、そのコーナーに立つと、そう感じるのだった。


何かを批判することは難しい。

批判している限り、自分は正しいはずだという立場におり、

また、被害者のポジションを保てるからだ。

自分も同罪だという認識。

自分も間違っているかもしれないという認識。

それが保てなくなる恐れがあるからだ。

組織に問題がある場合、

その問題の為に、自分が不利益を被った時。

どういうポジションを取ればいいのだろう。

謝るか。


謝って、それで済むのか。

問題の解決のためには、謝るだけでは不十分であり、

問題がどこにあるのかを認識し、それをただす必要がある。

問題のフォロー体制

それが出来ない場合、

上に、それを解決する気が見られない場合、

どうすれば良いのだろう。

残る人間には、負担が来る。

逃げる人間は、負担から逃れられる。

のだとしたら、残って問題解決にあたるのか。

でも、それが自分の努力ではどうにもなされないとしたら?

そもそも、そういう場を選んだ自分に否があるのだろうか。

自分は、もっとそういう感覚を身に着けた方が良いと感じた一日だった。