かもしれないブログ

月一更新です。

故郷巡礼 前編

今月思わず2連休があったので、ぶらりと福井県に帰っていた。

島根から福井へは国道9号をひた走り、175号を通って8号線に抜ける。京都北部が迷いやすくてこれまで何度も迷子になりそうになる。国道以外を使うと速いこともあるけれど、走り慣れていないと細い道で迷うと結構悲惨なことになる。僕のクルマにはナビがついていないし、携帯もスマホじゃない。

今の所見つけた抜け道は、島根県西部米子付近と鳥取中部から西部、舞鶴市内にそれぞれ一箇所ずつ。国道が渋滞していてもこれらの道はあまり混雑しない。生活道路ではなくて道幅の広い農道だからとても走りやすい。

本当は前日の夜中に出発するつもりだったけれど、さすがに気持ちわるかったのと早朝に敦賀に着いてもどうしようもなかったこともあり、結局明け方5時過ぎに出発した。平日だったけれど、この時間帯は交通量も少なく快適。通勤時間が重なる7時台には鳥取市内を抜け、8時ごろには兵庫県北部を走っていた。この辺りで小中学生の登校姿を見かける。9時頃には京都北部、舞鶴辺りに入っていた。時間の移り変わりで窓から見える町の様子が刻々と変わっていくのが面白かった。

時間についてはこの辺りから記憶があいまいになるのだが、途中に小浜市があり、ここは僕が幼少期を過ごしたところでもある。あまり気持ち悪がられるかもしれないから、あまり言わずに来たけれど、この町には、中学に入る前に転校して以降もちょくちょく遊びに来ていた。始めは友人宅に行っていたけれど、段々一人で行くようになった。成人してからも、何か悩み事があるとこの町に行き、小高い丘に上がって海を眺めながら考え事をしたり、しなかったり(つまりぼーっと)した。時の流れは一面残酷でもあるけれど、いろいろなことを自然に解決してくれたりもする。問題は放っておくだけで状態が変化して解決する必要がなくなったりもする。そんなことを海を眺めながら考えた。

f:id:ite6:20150513112000j:plain

僕には2年間何もしなかった時期があり、それは最中はとても辛いものだったけれど、最後、そこを抜けかかった時にその丘に僕は立った。晩夏の夕暮れ時だった。

小さい町だから、もう同級生はほとんど外に出てしまっていただろうけれど、僕にとってはそこはやはり故郷であり続けた。昔住んでた家の前にも何度か行ってみた。そこにはいつも以前と変わらぬ海風が吹いていた。

今回も、その町に行ってみた。驚くほど変わっていなかった。大きな道が着いていたり新しい家が建っていたりはしたけれど、そのほかは殆ど変化がなかった。昔は大きく見えた壁や堤防が小さく感じられたこと、狭かった路地が以前よりも増して狭く感じられたことくらいだろうか。

そこにはおそらく僕の知っている人たちは半分もいないだろう。お世話になった年配の多くの人は亡くなり、同級生は余所に出てしまっていると思う。

だけれど、その場所に立てば僕はいつでも当時のことを思い出せる。ありありと。そこには僕が嬉しい時も辛い時も同じように時の流れがあり、その町が僕自身と並行して存在しているというのは、何というか、救いのような気がした。

この記事は本当はSNSにアップしようかとも思ったけれど、いろいろなことを考えた結果個人的なブログに残した方が良いような気がして、いまこうしてキーボードを叩いている。

あれから20年の時間が経って、住むところも家族構成も学校も仕事もいろいろ変わった。変わり過ぎたと言ってもいい。だけれど、どれだけ時間が流れても、どれだけ僕自身の身の回りに変化が起きても、変わらない場所がある。

それは本当にありがたいことだと感じた2日間だった。

1年はあっという間だ。3年も振り返ってしまえばあっという間。学生の時はそうでもなかったけれど、成人して以降は本当に3年なんてすぐに過ぎてしまう。

大人(僕も一応年齢的には大人だけど)に言わせれば、10年もあっという間らしい。

その感覚は僕にはまだ想像もつかないが、多くの人が言う限り、僕も振り返った時にはきっとそう感じるのだろう。僕自身はあまり安定した存在じゃないし、欲しいものもやりたい事も結構変わるから自分自身の欲求に対して懐疑的なところが多分にある。こうなりたいとかああしたいとか思っていても、進んでいるうちに変ってしまうことがままある。僕自身の変化もあるけれど、身の回りも変化してきている。せめて僕自身の変化を最小限にしたいとも思うけれど、そうすると何かにブレーキをかけてしまう気がして勿体ないと感じるし変化こそが面白みのような気もする。

だけれど、変化を怖く感じる。動かなければ、無理矢理抑え込めばきっと変化は防げる。どっちが正しいとか間違ってるとかではないけれど、日々生活している以上変化を防ぐには膨大なエネルギーが必要だし、それに見合ったリターンがあるかと思えばそれは疑わしい。人と会ったり、外に出ると必ず何かしら変わってしまう。

以前の僕ではなくなってしまうし、今の僕でもなくなってしまう。それが寂しく感じる時もあるが、そういうのはもう故郷に任せてしまっていいのかもしれない。

いつでも、それはそこにあるし、帰ろうと思えばいつでも帰れる。

だから僕はもっと先に進んでもいいのだ、と背中を押してくれることを故郷に期待して、あるいは何かを確認して、僕はそこに帰っていたような気がする。

いい加減故郷離れしないとなぁと思いながらも、それでも故郷を大事に思えることはしあわせなことなのかもしれない、と感じた。僕が故郷を離れいろいろ歩んだ結果が、より大きくなる事であったならば言う事ないし、そうでなくてもそれはそれで良いと思う。

故郷がある。未開の地がある。ならば思う存分外に出たい。

いろいろなことがうまく行きますように。

 

f:id:ite6:20150513112112j:plain