ぎっくり腰になった。ここ一週間のことなど
先週の火曜日、昼過ぎにぎっくり腰になった。
最初は、少し違和感があるだけだったのが、だんだん痛みが激しくなり、最終的には歩くのも困難になってしまった。
これまでも、腰に負担のかかる作業はいろいろしてきたけれど、ほんの気の緩みでなってしまったのが悔しい気がする。
しかも、ぎっくり腰は癖になることがあるようなので、これから当分は気を付けていかないと。
今の時点で、ようやくものに掴らず立って歩ける程度に回復。
今回、それともうひとつショックだったのが休日を利用して大阪の友人の所に遊びに行こうと計画していたのが、行けなくなってしまったことだった。
最近、身の回りの変化が速すぎて、着いていくのがやっと。という感じになっている。
自分では、まぁこの程度だろうと目星を付けていた、その先の先まで流されていく。
それは、自分の目星の付け方が誤っていたということもあるだろうし、現実を甘く見ていたということもあると思う。
だけれど、どうもそれ以上に流されていく感じが強い。
その流れに抗うことは、多分あまり意味がないと思う。
抗って何とかなるものもあれば、なんともならないものもある。
今の僕の場合は、後者だ。
できれば、また大阪なり京都なり福井なりに住みたい。という思いがある一方で、
いや、実際はしばらくここで生活して腕を磨きたい、という思いといか、現実がある。
でも、それでここで生活しているうちに、計画が変ってしまったら、自分自身が変ってしまったらどうしようという不安もある。
何が不安って、それが一番不安なのかもしれない。
それが、どことなく自分の、地に足の着かない感じをもたらしているのかも。
ここも、大阪も、京都も、福井も。
同じ西日本なのだ。同じ、本州と言う島にあるのだ、と思えば何か違ってくるのかもしれない。
最近読んだ本。
養老孟司さんの『「自分」の壁』を読んだ。
普段考えてる自分の枠とか、いろいろハッとするところとか、なるほどなぁというところがあって面白かった。自分の知らない世界を見るのって楽しい。
あと、名越さんのツイッターもよく読んでいる。
なかでも
構造主義の猛毒は怒りを増強するところだ。構造が分かれば知らぬ間に固定し、それによって熱情に火が付き、相手を攻撃にまわる。構造をせめて骨格(動く構造)ととらえて、角度や位置によっては硬い拳や肘が急所にもなり、強者が弱者になることを見るべきだろう。
— 名越康文 (@nakoshiyasufumi) 2014, 7月 13
なるほどなぁ、というよりも、目から鱗って感じ。
認識を変えるだけで、激変する何かもあるんだなぁ、と思った。