かもしれないブログ

月一更新です。

ものさし。

人と会って話をしたりしていると

時々耳にする言葉。

「自分は○○をやっている。あいつより頑張ってるんだ。」

「あいつは○○なところがダメだった。私より劣っている。」

この言葉の語尾には以下の言葉が続く。



「だから私を愛してほしい。」



当の本人は否定するだろうけれども、本当に自分の事に一生懸命な人は、

他人の事をとやかく言ったりはしないだろう、と思うのだ。

時にはあるかもしれない、でも本当にそれにさく時間はごく短時間であるはずで

延々と、あるいは事あるごとに言うのは、やはり当の本人が何かに満たされていないからだろう、と僕は思う。

何年も前の過去の事、他人と自分を比較する事、

そんな事はどうだって良いのだ。

人は、自分自身の道を究めればいいのであって、

外野を気にする必要などない。


誰かの犠牲になりたい、誰かを後悔させたい、そう思う人は思えばいいのだし、

誰かを正しい道に進めたい、誰かを教え諭したい、そう思う人もいるのだろう。

でも、人が本当に自ら学ぶ時と言うのは、

自分の内面からだろうと思うのだ。

自分の事は、自分でドライブさせるしかないのだ。

究極の所。

だから、他人にかまっている暇など無いはずなんだ。

本当に、その道を、自分を究めようとするならば。

己の事を棚に上げて説教する人に、誰が付いていくだろう。

人を引き付ける人と言うのは、いつだって、無言だ。

そういうのが、一番グッと来る。

己の道を淡々と歩めばいいのだ。

自分は、もうある程度頑張ったから、と言って腰を休めている人間に用はない。

自分がどうするのか。

自分がどうしたいのか。

自分が何を考えるのか。

どう考え、どう行動するのか。

後悔する事も、傷つく事も、傷つける事も、これから先沢山あるだろう。

無いはずがない。

でも、それは、誰か他人にかけられた呪いの為ではなく、

自分の事、ただそれだけなのだ。

己の後悔・己の傷は、誰のものでもない、

丸ごと全部己のものだ。

それは誰にも譲れない、自分だけの財産なんだと思う。

己の事は、己で愛する。

それを誰かに愛されたいと思うから、人は頑張るのかもしれないけれど、

やはり自分の事は、自分が認めないで、誰が認めてくれるだろうか。


少なくとも、僕は、自分の事を大事に思える人間でありたい。

この世の中には、甘くない者を甘く見る甘さというのがある。

それを自覚できている人間と、そうでない人間。

自分は前者でありたい。