かもしれないブログ

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『東洋的な見方』

昨日は、鈴木大拙著『東洋的な見方』を読み返しました。

目前の仕事を後生大事にして、組織保存を最高の生活条件にしてゆけば、余計な心配は自ら消敗し去るはずだと、こう考え定めたらよいではないか、と何でもないようにいう人も、世にはかなり多数である。が、それで果たして安心できるのか、如何?生活向上ということのあるにもかかわらず、あるいはそれあるがために、神経的変異、心理的変調を訴えるものが、次から次へと出てくるのはなぜか。それだけでない。自殺する人さえ、ふえてくるというではないか。この社会現象を、なんと断ずべきであろうか。

「仮我」の世界、思議の世界、組織でかためた世界、機械や、概念や、技術や、経済や権力で締め上げた世界の中で、どうにもならぬ「無の極限」の世界がある。がらんどうの世界でない、無限の力をたくわえた不増不減、不得不失、万徳円満の世界だ。この世界の消息に一たび接しえて、そうしてから、哲学を建立してほしい。政治をやったり、商売をしたりしてほしい。外交の問題、労資の問題、その他一切の組織関係の問題は、刃を迎えて解決できる。

仏心とは大慈悲是なりである。大智・大悲・大方便、いずれも、「不思議」の底から湧き出る。外向きの進化は、これから内向きとなるにきまっている。

人間の人間たる所は、社会的生活をなし能うところにある。蟻や蜂のごとき集団生活でなく、また獅子や虎のような独立独行でない、人間特有の価値ある生存を可能ならしめるところのものが、われらになくてはならぬ。この「なくてはならぬもの」を完成していくのが、「万物の霊長」である。人間には、単なる生物的進化でなく、これを内面化し霊性化したものが備わらなくてはならぬ。

※引用部分はすべて『東洋的な見方』より