かもしれないブログ

月一更新です。

舗装された道路を通りたいという欲求。

それにしても思うのは、生きていくにはお金が要るという事です。

実際には、社会で生きていくにはお金がかかるという事です。

食べ物を買って、服を着て、地方なら車が要りますし。

だいたい基本的な、食べるという事にお金がかかるのですから、

お金がないと生きていけないのです。

それに加えて、あれこれと欲しいモノがあって困ります。

なのに、働くときは自分はどういうわけかとても不機嫌なのです。

ぶすっとして働いているのです。

これは問題です。

そもそも、何故自分がぶすっとしているかよく分からないのが困るのです。

レベルの高い職場ってあるのでしょうか。

前に自分が働いていたところは、自分の中ではある意味そういう環境でもう一度働けたらなぁという指標にもなっているのですが、

そこで印象的だったエピソードがありました。

或る日、別の部署の人に頼まれたのでした。どこどこへこれを持って行って、その間はあっちへ行って、そして戻ってきて云々とうルートを辿っていってほしいという事でした。

実際に行ってみると、現場の人たち(取引先の人たち)はみんなイライラしていて不機嫌でした。

「もう少しで出来上がるから待ってくれって」と行く先々で言われました。

要は、自分にそれを頼んできた人は、ガチガチに工程を組んでいて、元から無理のある工程だったのです。

余裕は皆無でした。

そんなものなのでしょうか。働くという事は。

そんなもの、と言ってしまうとあれですが、出来上がった道と言うのは何所にも無いのかもしれません。

この道は出来上がっているから、ここを通って行ってたもれ

という話は、そういう道は、そういう仕事は無いのかもしれません。

もし、僕が生きるのに食べ物を必要とせず、霞だけ食って生きる事ができれば

いろいろしたいです。沢山本を読んで、一日を全うしたいです。

人生の全時間を本を読むことと睡眠とに充て、そしてある程度貯まったところで、自分の考えを本として出版してウハウハ。

そんな人生を歩みたいものです。

が、実際は米が必要なのです。パンが必要なのです。

車だっていいのに乗りたいです。

家族と過ごす時間も大切にしたいものです。

が、果たしてこのままこうして生活していくべきか否か。

一度針路を決めると、住所を決めると、物を所有するとそれは縛りになります。

縛られているからこそとれる行動、得られる知識、信頼、感性もあると思います。

しかし、出来るだけフリーハンドでいたい。

そもそも、家族と過ごせるであろう時間を削ってまで、取り組むべき事がみつかっていないという事がそもそもの発端かもしれないのでして、

他人の生活を見ると羨ましくなったりして、

ふらふらフラフラ、実に安定しない自分の道です。

実際に、自分の住所を決めてしまうという事。

それを現にしている人はいるわけですし、どうせ何時何がどうなるかなんて誰にも分からないのだから

やれるだけやってみれば、という自分と

いやいや、やめておけ、早まるな、いつか絶対後悔する、他人の成功を見て後悔する時がくるから

という自分がいます。

やっても、やらなくても結局先は分からないのです。

それで悩んでいる自分がいます。

しかし、

悩むのは昨日でやめにして、

自分の道を進んでいきたいものです。