全弾を避ける必要はあるか。
生活していると、色々なところから矢だったり弾が飛んできます。
実際に飛んできているかどうか、それは自分を目がけて来ているのか、
それは分からないのですが、兎に角怖いものです。
どこから何が飛んでくるか分からない状況というものは。
来ると分かっている弾は、当たってもさほど痛くないように思うのですが、
ゲリラ戦のように、どこで誰がこちらを狙っているのか、どこから飛んでくるのか
分からないのが日常生活かと思います。
が、自分はどうもそれを過度に恐れすぎていたように思います。
生きていると、行動していると、止まっていてもそうですが、
批判されます。批判に晒されます。
自分は、そこで満点を取りたいと思っていました。
今もそうなのですが、減点方式は辛いものです。
誰から見てもパーフェクトに見られたい、あらゆる期待に完璧に応えたい。
でも、それは実際できっこありません。
こちらでいい顔をしていれば、あちらで批判されます。
今日感じた事は、人は実際に思っている事・感じている事と正反対の言葉を口にしてしまう事が少なくないのではないかという事でした。
人がその場で何を言っていようと、実際はその場を収める事を目的とした言葉だったりもするのです。
だから、どんな言葉を耳にしようともそれを額面通りに受け取るのが常に正しいとは限らないという事です。
それとはまったく正反対の事を思っているかもしれないのです。
「あんな奴知らん」という言葉があったとしても、
実際はその人は「あの人が気になって仕方が無い」という事かもしれないのです。
何を基準にするか、ですが、それは相手の「目」かもしれません。
何かで読んだのですが、営業用のスマイルと、心からの微笑みは、どこが違うかというと、それは目だそうです。
目が笑っていないという事です。
なによりも怖いのは、甘い菓子だと思っていたのが、実際は苦い渋い食べ物だったりした時だと思うのです。
それは食べてみるまでは分からないものですが、
聴くところによると、自分の感覚を鍛えていけばあるレベルまではそれを判断できるようになるそうで、
その為には過酷な状況に自分を追い込むというか、
抜き身で生活するというとあれですが、
つまりそういう事だそうです。
頼る術をすべて断ち切った後に残るものが、信頼に足るものというか、
生活していくと色々あると思いますし、その見極めが難しくはあると思うのですが、
自分などはおそらく例外的に、かなり良い環境の中で育ってきたかと思うのですが、
それがこの先もずっと続くとは限りません。
例外的に過酷な状況で、例外的に自分のパフォーマンスを向上させるのが武道であり、
知性の目的とするところらしいです。
初めから何かを頼りにすることなく、自分の生活を見つめなおすというか、
その辺りと向き合っていく事になりそうな感じがします。