かもしれないブログ

月一更新です。

食わず嫌い・読まず嫌い。

最近読んだ本で、それまでは毛嫌いしていた著者の本があり、

読んでみたら、イメージと全然違っていたという事がありました。

最近の本は、題名が先行してしまって(分かりやすい題名)、

中身を読む気がしない、という事があると思うのですが、

それで読まないというのは、何か損な気がしました。

イメージで人はものを考えたり、それをアウトプットする意味で言葉を発したりしますが、

聴く人は、そこで得た言葉を脳内でイメージに変換するので、

ここでは二度、イメージ化されているのだと思います。

イメージ→言語→イメージ。

相手が思い描いたイメージと、自分が思い描くイメージが寸分違わず一致するという事はまず在り得ない

というか、在り得たとしてそれを立証することが極めて難しいほど、

人の心は断絶しているものですが、

例えば、今回の本に関していうと、自分が勝手にイメージしていた内容では無かった

という事になります。

自分が先行させていたイメージで以て、その本の内容を判断していたのですが

これは人間関係でも、他の物に対してもあるような気がします。

過去に、自分が乗っている車に乗れない時期に、代車として昔のコロナを用意してもらったことがあります。

見るからに古くて、ドノーマルな車でしたが、乗ってみると

軽自動車と普通車の違いなのか、とても快適だった覚えがあります。

あれも、経験してみたいと分からない事だった筈です。

あの時期に乗る事がなかったら、もしかしたら一生そういう感覚は味わう事はなかったかもしれません。

そういう意味で、自分の思い描くイメージを過信しない方が良いと思うのですが、

自分は、自分のイメージでしか物事を捉える事ができません。

他者からの言葉を聴き取る際であっても、既に相手の中で一度イメージの言語化が行われており、

それを解凍して、自分の中でイメージ化するのですから、誤解は避けられません。

人の言葉は、時と場合によって、その後の決断に大きく作用する(と後々になって思われる事も)事があると思うですが、

だからこそ、イメージを言語化する時は注意が必要な気がしました。

短気は損気であり、自分は短気な人間ですが、

こういう人間は、自分の中で言語をイメージ化する際にも注意が必要なのかもしれません。

少し話が変りますが、

なかなか人に心を許せない環境があるとします。

が、それにはそうなった理由があると思うのです。

何故、そうなったかと理由を問う事、その態度こそが、その人の心を閉ざしてしまった

という理路は通らないでしょうか。

一旦閉ざしてしまった、閉ざされてしまった心は、容易に開くことはできません。

天照の神話に似て、心と言うのは内側にしかロックはついていないのです。

一度、ある物事に不信感を抱いてしまったら、抱かれてしまったら、

それを払しょくするのは大変です。

払しょくしようという態度自体がより心のロックを、在り方を頑なにしてしまい兼ねません。

人の心は、意識は、宇宙空間に漂う恒星のように断絶しています。

その前提をもって、やりとする事。

そのやり取りの手段の一つが、言葉であり、文字であるのですが、

自分はそれを意識する、意識に上らせるようになりました。

いつか、それは無意識の中に埋没していくでしょうが、それは無意識の中にあっても

おそらく自分に影響してくるでしょうし、その浮上先が自分ではなく、他人でないとも言い切れません。

断絶した心、意識は、

言葉介して、文字通り時空を超えて、やりとりをするのですが、

それは自分の中に、他人が持っていたであろうイメージを内包しているからなのでしょうか。

例えば、小林秀雄だったり、白洲正子だったりの文章を読むと、

なるほどなぁと思う時、過去の詩を読んで、俳句を読んで、

何か心に響くものがある時、それはその作者が、感じたイメージに似たものを自分の中に感じる事であって、

そこに、何か不思議さと言うか、何かがある気がします。

過去の人間が抱いたであろうイメージが、言語として残り、それを現代の人間である自分が、

自分の中で以て解凍し、イメージ化する事で、その思いを共有するという事。

そこには、心の交流と言う本来不可能な事が成り立っていて、

それは、もともとは同じ一つのものであったのかもしれない、そしてそれは今も同じものなのかもしれないという事を思わせます。

言葉は、人間を喜ばせもすれば悲しませも、狂わせもします。

そういう事を知った前提で物事を考える、伝える。

しかし、その事を逆手に取る者もいなくはないのが、

人間の悲しい性なのかもしれません。

それは、言葉を利用しているつもりで、逆に言葉に振り回されてしまっていると言えるのではないでしょうか。

いや、本来言葉を制御する能力など人間は持ち合わせていないのですから、

それはそういう事なのかもしれません。

言葉を利用する、その発想は、言葉に対する無自覚さを表しているように思えてなりません。