かもしれないブログ

月一更新です。

雑感。

同じ商品を見る時にでも、それを単なる商品として見るか、作品としてみるかの違いがあるように、

それと同じよう事は、色々あると思う。

例えば、人と接するときに、自分が相手に、相手が自分に接する時に、

その人のクセと言うのがあると思うのですが、

その癖を、他人が直すことは難しいのです。

というよりも無理なのです。たぶん。

相性という者があって、

そこから何かを掘り出せることもあると思うし、

そうでないこともあると思います。

骨董の世界では、月謝を払ってなんぼだそうで、

これは、人と接する場合も同じじゃないでしょうか。

どれが本物で、どれが贋作か、本当の所は誰にも分からないわけで、

大方としては、こうというような見方で決めているそうです。

ならば、贋作には価値が無いかと言うと、そうとも言えず、

結局その人がいいと思ったものが、その人にとっていいもので、

他人に勧められて買ったものは、たとえそれが本物であったとしても、

そこから何かを得られるというのは、あまりないそうです。

しかし、骨董に関しては、贋作云々いうのは、

買いもしないで云々云うのが、その行為自体が偽物だという考え方もあるそうで、

だから、結局そこには、そこに関わる事を選んだ人のみが知り得る世界があって、

だから、そこでは答よりも問い方が問われるのだと思いました。

どのように問うか、どのような方面からどう切り込みを入れ、

どんな切り口を作るのか、

その事で、同じことでも色々な面が見えてくるのだと思うのですが。

その人の所有物、

その一つ一つに物語があると思うのです。

その人に固有の物語があると思うのです。

それは、その人だけのものです。

他の人は、それと似たような物語のあるものをもっているかもしれません。

それが通じた時は、嬉しいのだろうなぁという気がしました。

人にはそれぞれ生活がありますが、

自分は意外とそれに無頓着です。

しかし、

相手の生活をどうこう思うのは、おこがましく、

だから自分の生活を大切にしていくのです。

相手に甘いのは、自分が甘いからだという考え方があるらしいのですが、

自分は、それでいうと

かなりの甘ちゃんかもしれんなぁと思ったのでした。