かもしれないブログ

月一更新です。

出会う、と、別れる、の総数

世の中で、出会うという総数と、別れるという総数は同じなはずなのだけど、

自分はどうも別れるの数を多くカウントしてしまう傾向にあるようだ。

ここ数年であった人とも、もしかしたらもう会えないというか

そっちの可能性の方が高い人もいる。

いまいる仕事場もそうで、自分がいなくなった後の机を想像すると

少し悲しい気持ちになる。

こういう気持ちになるのは、もしかしたら初めてかもしれない。

今までは、次へ次へ、と進んできたからかもしれない。

そこにいた時間が、単に長かったというだけの事かもしれない(世間的には全然短いのだが)。

自分を、見られる自分と、見る自分に分けると、

どちらかというと、というかかなり

見られる自分に主軸を置いているように思う。

見られている自分、思われている自分に、

自分を合せる。

というか、

よく思われたいのだ。

でも、それも最近は少し変わってきたのかもしれない。

前の職場で先輩だったK氏を思い出す。

もう忘れておられるかもしれないが、自分は

その人の事をよく思い出すのだ。

不思議なもので、その時にお世話になっていた、

というか仕事上で一番話していた人の名前は忘れてしまった。

他の人の名前は思い出せるのに、だ。

そういうものなのだろうか。

世の中では、これだけは必要、

これだけはやっとかないとダメ

何歳までに○○

みたいな事がある。

沢山ある。

20代から20代半ば、

また後半(これは今も)だけど、

そういう事に追いかけられていた。

実際は、そういうものは存在していないのに

まるで自分の後に伸びる自身の影に怯えるかのように、走り回っていた。

ヤバイヤバイ。

周りは、あの人は、もうあんな所に居る。

自分はまだまだだ。

そう思って、

人前では弱みを見られないように、振る舞っていた

(長い間そうして来たことで、その振る舞いが若干染み付いてしまったようなのが悲しい)

が、これはおそらく

何か振り子が振れるような運動の一つなのかもしれない。

自分の身の回りには、

自分では理解できないような事が起こる。

理解できないような行動を目の当りにする時がある。

自分ではどうしようも解決できない事が現れる。

自分は、自分の行動の指針として

できるだけ批判しない

という態度をとる事に決めた。

自分が悪くないのに、怒られたり

責められる。

ただ、それに関わったというだけで、

或いは、ただそれに関係がありそうだ

というだけで。

それを未然に防いだことはプラスにカウントされないが、

それが世の中というものなのならば、

自分も、おそらくそういう誰かのプラスの上に生活しているのだろう。

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身体のだるさは抜けないけど、

これもいつかは無くなるのだと思うとそれはそれで悲しくもある。

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どれだけの人と会って、またどれだけの人と別れないといけないのだろう。

彼らと、また話したい

と強く思う。

別れは突然にやってくる。

思えば、あれが最後に話したのだった

という場面が多い。

特に、今の職場において。

それはたまらなく悲しい感じがする。

仕事上の付き合いだから(自分のそれが仕事と言えるかどうかは別として)

そんなに立ち入った話もしないし、

どこに飲みに行くんですか、

若いですね、元気ですね、

という言葉しか交わさなかった。

彼の笑顔、彼らの笑顔が忘れられない。

飲みに連れて行ってもらった日の事(その日は用事があったので帰りたくて仕方なかったけど)や、

一緒に行動した日の事、

それらの一つ一つが、

かけがえのない経験として自分の中にある。

どういう日だったか。

寒かったか暑かったか。

晴れていたのか曇っていたのか。

彼らは、どんな表情で仕事をしていたのか。

自分には、彼らがやっていたようなスケールの「仕事」はまだ出来ていない。

どういう風にすればいいのか分からないから、とにかく

彼らの行動、表情を思い出す。

自分のやっていたその仕事は、金額面でいうと

全然小さいのだろうし、

責任のある事も任されていない(他のパートスタッフの方が任されている仕事もまだ任せてもらえていない)

それは恐らく自分の、それに対する態度がそうさせているのだろうし、

単に、そういう環境なのだ

という事かもしれない。

後者であることを望みたい。

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先日、NHKでDVが出てくるドラマがあった。

それを観て思ったのは、

この構図は、必ずしも夫婦間に限られたものではないな、という事だった。

仕事場で、学校で、家庭で、

人が居る所で、その構図は現れ得るのではないだろうか。

これは貴方の為だから、

愛しているから、

貴方の事を思っての事だから、

自分でないと、

自分がいなければ、

それは、100パーセントとは言えないかもしれないけれど、

病んでる。

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僕が(自然に僕という言葉が出たけれど)、最近思ったのは

お金に関しての事。

お金の性質に関しての事だった。

お金は、情報だとか、数字だとか、言葉だとか

そういう表現を何処かで目にして来た。

僕が思った事は、

お金は、血であり、肉ではないか、という事だった。

働いて得られるものが、血であり、肉なのだ。

ある環境において、多くのそれを得ているという事は、

多くの血であり、肉を得ていることに他ならない。

誰の血か、それは労働者にとっては顧客のものであり、

上司にとっては部下の、

経営者にとっては、従業員の、それに他ならないのではないだろうか。

血であり、肉であるそれで建てられた家は、

肉を血で塗り固めたそれに他ならない。

食べているものも、飲んでいるものも、

それなのだ。

それを自覚しなければならない。

そういう現実があるのだという事を。

だから、

良い家に住んでるとか、良いクルマに乗ってる、最新のガジェットを持ってる、

そんな事は自慢にも何にもならない。

だって、それは他人の血肉なのだから。

首狩り族が、敵の骸骨をアクセサリーにしてそれを誇るのと、

どう違うというのだろう。

要は、

使い方の問題なのかもしれないけれど、

僕はいま、考えている事は

お金の本質であって、使い方ではなかった。

どうも、いまの自分はそういう考え方になる傾向がある。

これは、恐ろしい考え方かもしれないけれど、

今はそれに変わる答えが見つからない。

もしかしたら、問いかけ自体が間違っているのかもしれない。