アンチからオルタナーティブへ。
茂木健一郎氏の言葉。
アンチから、オルタナーティブへ。
アンチとは、wikipediaによると「反〜」「抗〜」という意味で、
オルタナティブは「代替えの」という意味らしい。
この所、色々な知識人が原発の危険性についてあーだこーだと言っているが、
それについては、複雑な思いがする。
複雑と言うよりも、怒りに近いものがある。
今、危機を言ったところで、遅いじゃないかという思いがあるのだ。
遅い遅くないではなく、どう行動するかが大事だと言えばそれまでであるけれども。
こうなる事を防げなかった「知性」とは何なのか。
数年前、市内の電力会社の建物の前で座り込みで抗議していた一人の老婆を見た。
あの老婆は、いまどこで何を思っているのだろう。
まさかここまでの状況が来るとは思っていなかったんじゃないだろうか。
あの時、あの老婆は誰にも見向きもされず、
なにか汚い者でも見る様な目で、
あるいは、存在そのものが無いかのようにされていた。
一日だけではなく、
来る日も来る日も、建物の前で座り込みの抗議をしていたのだった。
それに対して、
僕自身、あまり関わりたくないと思い、見て見ぬふりをしたし、
そういう事が家族の中で話題に上ることもなかった。
必要な事、
何が必要かは、いろいろあるだろうけれども
自分が被害者ではなく、加害者だと言う意識。
それに無言の加担をしていたという意識。
それが、僕自身には欠けていたように思う。
小林秀雄と岡虜の対談『人間の建設』の中で、
人間は、いまだ生存競争の域を脱せず、
これはまだ人類に至らない獣類ではないか
というようなやり取りがあった。
そして、今回の人間は人類には到達できないかもしれない。
そうすれば、
また進化をやり直して、20億年かけてまたここに来ればいい。
というようなやり取り。
挑んでは失敗し、挑んでは失敗し、
山のような失敗を築いた後に、やっとそこを乗り越えるというやり方が
自然の中にある。
だとすれば、
人間も、山のような失敗を築かなければ、
人類にはなれないかもしれない。
そして、
今回の人間は、どうやら人類には到達できなさそうだ
という内容だった。
そういう事を思い出した一日だった。