かもしれないブログ

月一更新です。

考えるヒント

休みの日の夜は、ふと孤独について考えてみたりして、

するととても不安になってしまって家族の声を聴いて安心してみたりする。

人の孤独さは、それぞれのものであって比べようが無いけれども、

海に浮かぶ葉っぱのようなものが孤独だと考えると、

最後は海に沈むのだから、さして不安がる必要はないのかもなぁなどとぼんやり考えた。

兼好は、死について

対岸から迫りくるものではなく、我々のうちに潜んでいるもの、

あらかじめ我々のうちに含まれているものだというような事を言ったらしいけれども

もしかしたら孤独もそれと同じようなものなのかもしれんな、と思った。

死、とか孤独は

ネガティブな言葉とされているけれども、

そう簡単に分類されるもの、きれいに切り分けられるものでは無くて

実は自分の内面に、生まれながらにしてある自分の一部だと考えると、

そう考えた方がなにか楽しいような、少し気が楽になるような感じがしないでもない。

秋の夜は、虫の声が聞こえてきて、

また空気も澄んでいる様子で、

この様子を、江戸時代やら、鎌倉、縄文時代の人たちもまた感じていたのかもしれない

と思うとそれはそれで趣深い気がした。

意は似せやすく、形は似せ難い

というような事を宣長が言ったらしい。

これは実にそうであって、

自分の内面にある何かを形にとろうとすることは難しい。

キーボードで文字に起こすのも紙に書くのも、

言葉として発声するのも、

それは言葉としての形になってしまっている。

形を自分の内面にあるものと同じものとして切り出すことは出来なくて、

文字に起こした途端、言葉にした途端、それはふっと消えていて

どこか別の次元に溶け込んでしまう感じがする。

「言葉は難しい。日本語は難しい」

とはよく耳にする言葉だけれども、その難しさとは

結局人と人とは完全に触れ合う事はできないという事

そこからスタートするしかないという事を示している気がする。

だから誤解されても仕方ないなどか、そういう事では無くて、

それでもなお伝えていく、伝えようとしていく事なのかななどと考えた。

小林秀雄の「考えるヒント2」を読む。

縄文時代は我々の中に今なお生きている。

という言葉や、

平家はまだ我々の中で死んではいない。

という言葉。

一つ一つに重み(という言葉がふさわしいとは思わないけれども)があって、

味わい深い。

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京都に住んでいた頃、少しの間だけ自転車便のアルバイトをしていた。

その会社の社長にはとても世話になったというか、

というよろも迷惑をかけたという方が適切なのだけれど、

その社長は、若くして亡くなってしまわれた。

自分自身は、その時から見て少しは成長できているだろうか。

成長というよりも、自分を深めているだろうか

自分と向き合えているだろうか

という問い。

どう問うか。何を問うか。

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読む本は、実は選んでいるのではなく

呼ばれている。そういう考え方をするといつもと違った角度で、深度で、度量衡で読むことができるかもしれない。

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知性を高める。

これに集中しつつ、

でも孤立しない。

それは可能なのだろうか。

それとも、知性を高めるという事は、他との融和性を高める事なのだろうか。

自分の知性の他に60億を超える知性があることを認める事。

知性は、それがどれだけあるかというよりも、どれだけ無いか。

どれだけ欠けているか。

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大学では、哲学を専攻したいと考えて、哲学科はないのかな、等と考えていたけれども、

自分は、思った通り、自分の読みたい本を読み、考えたいことを考えているようだ。

それとも、読まされている・考えさせられているという方が正しいかもしれない。

それは自分の心が、

自分の思い通りにならないように、

自分の進みたい方向も、

自分の思い通りにはならない。

呼ばれる、という感覚。

もっと言うと、必要とされているという事。

それはどういう事なのだろう。

そういう事を考えている。

散文