かもしれないブログ

月一更新です。

読書と実行。

本を読んでいると、すごく知識が豊富になった気がするし、

それを武器に何かできるような気がしてくる。

でも、実際はそうじゃないのかもしれない。

本で得た知識は、脳には入っているかもしれないけれど、

身体には刻み込まれていない。

身体で実際に経験したことの重み。

本で得た知識を、単に知識としてではなく、自らの血肉にしていく人間もいるかもしれない。

でも、自分はそうじゃないようだ。

人と話す場合も、やはりそうで、

人が本で読んだ事を言っていても、

それは心のどこかでスルーしている。

言葉に内容が詰まっていない感じがするからだ。

逆に、どれだけ言葉に詰まろうと、

その人が体験した事、その事を話している場合は、

聴くような気がする。

体験した事は、脚色する必要も何もなく、

只事実を言うだけで、

本当に伝えたいこと、その中に何か伝えたいことがある場合には、

その言葉の内容を汲み取り、こちらで再構成することが出来る。

本人が、何を伝えたいのか具体的に説明できなかったとしても、

その何か必死さのようなものが言葉に染み込んでいれば、

わざわざ「この話で言いたいことはコレコレです」

と説明されずとも、

こちらでその意味を汲み取ろうとせざるを得なくなる。

そもそも、その話をこちらにふっている時点で、

彼は私に何か伝えたいものがあるのだ、と実感できる。

ただ、どの会話にも当てはまる訳でもなく、

当たり障りのない話、世間話、定型のフレーズ、パターン化された会話

等の場合は、これに該当しない。

本当に伝えたいことがある場合は、

多少言葉がおかしかろうが、文法がおかしかろうが、

パターンから逸脱していようが、

こちらでそのモザイク画のような言葉を鮮明にしようと努力する。

それが、相手の伝えたいことかどうかは確かめようが無いことだけれども、

その言葉の熱はこちらに伝わるものなのだ。


しかし、本で読んだフレーズ。

特に、自分が経験していないことは、ただ形を真似ることは出来ても、

その熱までは伝えることが難しいんじゃなかろうか。

そのフレーズで伝わった熱。


文章から得た熱は、


一度こちらで再加工する必要があるように思う。


それを、そのまま知った風で伝えても、なかなか相手には伝わらない気がする。


それが、自分の経験に裏打ちされたものなら別かもしれないけれど。


そんなことを考えた月曜日だった。