読書と実行。
本を読んでいると、すごく知識が豊富になった気がするし、
それを武器に何かできるような気がしてくる。
でも、実際はそうじゃないのかもしれない。
本で得た知識は、脳には入っているかもしれないけれど、
身体には刻み込まれていない。
身体で実際に経験したことの重み。
本で得た知識を、単に知識としてではなく、自らの血肉にしていく人間もいるかもしれない。
でも、自分はそうじゃないようだ。
人と話す場合も、やはりそうで、
人が本で読んだ事を言っていても、
それは心のどこかでスルーしている。
言葉に内容が詰まっていない感じがするからだ。
逆に、どれだけ言葉に詰まろうと、
その人が体験した事、その事を話している場合は、
聴くような気がする。
体験した事は、脚色する必要も何もなく、
只事実を言うだけで、
本当に伝えたいこと、その中に何か伝えたいことがある場合には、
その言葉の内容を汲み取り、こちらで再構成することが出来る。
本人が、何を伝えたいのか具体的に説明できなかったとしても、
その何か必死さのようなものが言葉に染み込んでいれば、
わざわざ「この話で言いたいことはコレコレです」
と説明されずとも、
こちらでその意味を汲み取ろうとせざるを得なくなる。
そもそも、その話をこちらにふっている時点で、
彼は私に何か伝えたいものがあるのだ、と実感できる。
ただ、どの会話にも当てはまる訳でもなく、
当たり障りのない話、世間話、定型のフレーズ、パターン化された会話
等の場合は、これに該当しない。
本当に伝えたいことがある場合は、
多少言葉がおかしかろうが、文法がおかしかろうが、
パターンから逸脱していようが、
こちらでそのモザイク画のような言葉を鮮明にしようと努力する。
それが、相手の伝えたいことかどうかは確かめようが無いことだけれども、
その言葉の熱はこちらに伝わるものなのだ。
しかし、本で読んだフレーズ。
特に、自分が経験していないことは、ただ形を真似ることは出来ても、
その熱までは伝えることが難しいんじゃなかろうか。
そのフレーズで伝わった熱。
文章から得た熱は、
一度こちらで再加工する必要があるように思う。
それを、そのまま知った風で伝えても、なかなか相手には伝わらない気がする。
それが、自分の経験に裏打ちされたものなら別かもしれないけれど。
そんなことを考えた月曜日だった。