インターステラ―を観てきた。
観察者は対象の中に必ず自分自身を見つけるというならば、どんな作品を観てもそこで目にするのは自分自身だと言える。
これをもっと広げると、誰かが違う誰かにアドバイスなり何なりをする場合、それは相手の中にいる自分自身に言っている、とも言えるんじゃないか。
実際、自分の中に無いものを外に見出すことは難しいし、もし見つけ出したとしても理解できないだろうから。
誰かが何かを言っていたら、それは全て自分自身のことなのだ。
自分自身の中に無いものを表現する事はできない。
だから特に何も気にする必要はないし、自分が「コレだ!」と感じた方向に進めばいいだけだ。
毎日、毎日。朝が来て昼が来て、夜が来る。
延々と続く。
そうなると、不安になる。
これで、このままで人生終わるんじゃないか。
予想する。
1年後。3年後。10年後。
ゾッとする。変わらない日々に。変わり映えのしない日々に。
予想がついてしまう、という怖さ。
でも、未来は何も決まっていないし、今ここに居るからと言って、これから先ずーっとここに居る必要も何もない。
ただ、日々やることをやる。
変化はいつも突然訪れる。それが何かは分からないけれど。
それが外的な変化なのか内的なそれなのか分からないけれど。
そういうのって否応なしにやってくる。
数年後こうなってるだろうな、と思う。
でも、そういう予想が当たった試しなんてない。
いつも思いもよらぬ展開になっている。
でも、一歩は踏み出さなければ。
自分の範囲で、手の届く範囲でとどめようとすれば
物語はそこまでなんだ、ということを感じた。
他人の感情にも自分の感情にも飲まれるのはよくない。
感情に振り回されず、静かにそれを見守る。
でも、だとすると感情ってのはそもそも何なのだろう。
と、ふと思った。
それは何かエネルギーの素のような気もするけれど、下手に近づくとよくない。
それで、その辺りを。その周辺を衛星みたく回りながら観察する。
思えば、同じようなことをグルグルグルグル考えたり、したりしている。