かもしれないブログ

月一更新です。

『ノルウェイの森』

村上春樹の作品と、内田樹の語る内容には共通点があるなぁという気がする。

でも、どの辺り?と聞かれても上手く「此処です」と示せない。



ノルウェイの森

この作品も、そういう部分を強く意識させられる部分があった。

この作品の存在は、過去に知人から耳にしていて、

なんだか怖そうな、それでいて何か気になる

という印象を持っていた。

それから長い間、この題名の事も、その印象も、

きれいに忘れていた。




死と、性の物語。

主人公と、登場人物には、常にこの

死と性がまとわりつく。

夕暮れ時に背後に伸びる、自分自身の薄い影のように。

あるものは、その影に飲み込まれ、あるものは、他人のそういう行動に影響を受ける。

何故、そうなるのか。

何故、そうしたのか。

何も語られないままに、人が居なくなる。

その事に対して、腹を立てる。

人は、何かに集中している時、熱中している時、

身の回りの事、身の回りの人の事を、

忘れてしまう時がある。

人が居なくなった後に、

残された人はどう振る舞うべきか、

という事が、

繰り返し繰り返し

書かれている気がした。

ある人物が、作品の中で

ビートルズの「ノルウェイの森」をリクエストする。

別の人間が、それに応える。





死と、性。

これは星占いでは、

冥王星の管轄する部分。

普段は隠れていて、その存在を正面からとらえる事は難しかったりする。

でも、それは確実に存在していて、

自分の内側に、外側に、強力な破壊と創造をもたらす。

というような事が言われる。



草原に穴がある。

穴を避けられる人と、

穴にはまってしまう人。

でも、なんで穴がある事が知られているのか。

もし、穴に入った人が全員消えてしまうのならば、

それを語るのは誰なのか。


作品の中では、

性の部分も繰り返し出てくる。

これでもか、これでもか、と。

それで食傷気味になってしまう部分もある。

死も、性も、

何かが失われる、

しかも強烈に、病的なまでに執拗に

主人公を襲い続ける。

じゃあ、

最後に何が残るのか。

それでも、生きていると言えるのか。

失うばかりで、

何かを得ているような感覚がこの作品にはない。

絶え間ない喪失。空虚感。どうにもやり切れない感覚。

味のない水。

水は飲めるが、ただそれだけで

生きてはいけるが、ただそれだけで、

その徒労感というか、果てしない透明感というのを感じた。

それでも、

結局、主人公は作品の最後まで登場し続ける。

そこで、

彼が何を語ったのか。

村上春樹

この作品で語りたかったのは何だったのか。

文庫本の上巻の裏表紙には、

このような言葉が書かれている。

限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説

でも、僕にはこの物語の中で

「再生」を見出すことは出来なかった。

もしかしたら、こういう捉え方をすれば、

それが再生という事になるのかもしれない、

という風にも考えられない事は無いけれど、

素直に読み込んでいくと、

これは、

絶え間ない喪失の物語でしかない。

しかも、その喪失に意味があるのかどうか

それも分からない。

理由も告げずに居なくなってしまう人、

何故そういう行動を繰り返すのか十分に語られないまま

居なくなる人、

またそういう状況。

誰もかれも何かを背負っているが、

それが何なのか、何の為にそれを背負っているのか

分からない。説明できないしされていない部分がある。


チャンドラーの、ロンググッドバイに通じる部分もある。

言葉づかい、表現方法は、キャッチャーインザライに通じる部分がある。

もしかしたら、

この作品は、

核にそれを用いて、それに日本語をまとわせただけのものなんじゃないか

何も新しい事は無いんじゃないか

という気もしてくる。

でも、

読後に抱く「感じ」は、なぜか心地いい。

そんな作品でした。