かもしれないブログ

月一更新です。

わからん。

みんな弱気だ、だからだめなんだといつも怒っている人がいた。彼も選手だったから周囲の選手が弱気な事は差がつく一方だからむしろ喜ばしい。彼がそれをやめなかったのは目的は相手の改善ではなかったから。自分の人生と関係がない人を執拗に罵る時、人は自分に言い聞かせている。

これは為末さんの5/19のつぶやきなのだけど、

これがずっと頭に残っていて、確かにそうかもしれないなぁと思った。

前に勤めていた職場にしてもそうだし、自分自身にしてもそうなのだけど、

問題なのは、人がこういう状態になっている時は、

「あぁーはいはい。自分に言い聞かせてるのね。」

と思う事が出来るが、自分自身がこのような状態になっている時は、

そうは思えないような気がした。

深く内省して初めて、「これは、もしかしたら…」という部分に突き当たる。

ような気がする。

僕の場合はどういう事で他人に怒る事があるかと言うと、

傾向としては、

@礼儀 @言葉づかい(これも礼儀か) @弱気(これは為末さんの言う内容と同じかも)

@常識 @思いやりが無い人 @自分勝手

多いな…。

こんな感じになる。


あと、思ったのは、

何か組織内で問題が発生して、それを罰する決まりごとが組織内に無い場合(これこれだから、この罰則にあたります的な)

だとか、

もしくは罰則があったとしても、当人がそれに満足していない場合(罰が少ないという意識)

が働く場合は、自らを裁くという行為に走りがちなのではないかなぁという事。

具体的にはどういう事かと言うと、

組織に迷惑をかける事によって組織内に留まれないような状態に自分を追い込んでしまう、という事など。

迷惑をかける・足を引っ張る、という行動は、

意識的にとられる場合とそうでない場合があるけれども、どちらもが一見組織に対する行動のように見えて、

実際は、自分自身にフィードバックされる内容(罰)を求めて、行われているような気がした。

それで、こういう場合、どのようにしてその行動を止めさせるかと言うと、

おそらく外部からはなかなか難しくて、

当人が「これは一見組織の足を引っ張る事に見えるが、実際は自分自身を罰しているのではないか」

という事に思い当たる事が一番有用な気がする。

これは、こないだ見たドラマで構造が「罪と罰」に似た内容だったのだけど(思い違いかもしれないけれど)

罪と罰」の自分なりの印象としては、罪が罰を呼び込み、その罰も又罪になる。

という罪と罰罪と罰と…と延々続くミルフィーユのように積み重ねられていく感じがある。

で、

今回気になったのは、罪と罰がステップを踏むように、

切り替わっていくのだけれど、それは同じ線上にある、という事で、

当人が罪を犯す事、それ自体が当人自身に対する罰でもあるような気がしたという事だった。

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文章を書くのは、難しいと感じる今日この頃。