かもしれないブログ

月一更新です。

大学時代を振り返る。

僕が選んだ場所は、京都市内の大学だった。

最初は北海道とか沖縄とかが良いなぁと思っていたのだけれど、

高校3年の時の自分の成績と出席日数、その他あれこれを考慮し、担任の先生と相談した結果、

京都市内の大学に行くことにした。


そこは、何人か知り合いの人も行ったことがあるようで、

「じゃあそこにしよう」

という事になった。

試験は、推薦ではなく一般入試。

本命を一つ、そして、滑り止めとして一つ、それぞれ京都市内の大学を受けた。

最初に本命の試験があって、その後滑り止めの試験があった。

本命の合格通知を開ける時、

すごく緊張したのを覚えている。

それが家に届いたとき、母も家に居た。

僕は、まず一人になれる場所にそれを持って行って、

確認をした。

跳び上がるほど嬉しかった。

そこは模試でB判定の場所だった。

その後、何週間かして、

滑り止めの所の通知も来た。

手応えとしては、合格してるだろうと思っていた。


何故か不合格だった。



本命に合格した後、滑り止めで滑る。それが僕の大学生活のスタートだったように思う。




高校3年生の1月以降は、殆どフリータイムとなった。


僕は、友達と出かけたり、音楽を聴いたり、自炊の練習をしたりして過ごした。

普段あまり遊ばない友達との交流も増えて、

その人の家へ遊びに行ったり、

逆に遊びに来てもらったりした。

お互い、あまり仲が良いという感じではなかったけど、

その時は、打ち解けられた様子だった。その交流は後にも先にも、この一回だけだった。

でも、忘れる事はないと思う。

その人は、うちへ来て、ブルーベリー味のラスクを食べて、

「これ美味しいな」と言った。

笑っていた。

その人は、それが気に入った様子だった。

味噌汁を作る練習もして、友達がそれを見ていた。




それまで僕は、あまり人と遊ぶのが好きではなかった。

だから、それまでは誘わられても断っていた。

でも、その時は時間があったので自分から誘ってみた。

普段断っていた為か、その時は逆に断れらる事が少なくなかった。

今思うと、各々が春からの生活に向けて忙しかったのかもしれない。



僕は、その時色々と考え込んだりもしていたので、時々友達が誘ってくれることで気が紛れていた部分もあった。

部屋では、妹のCDを聴くことが多かった。

キンキキッズと、あとSMAPライオンハートをよく聴いた。



2月の下旬から3月の上旬だったと思うけれど、

下宿を探しに親と京都へ行った。

大学が案内している下宿先が幾つかあって、その中の一つに決めた。

窓が東向きについていて、家賃が安い事が決め手だった。

父は、僕がどこか県外へ出る事を望んでいたようで、喜んでいた様子だった。

安心した部分もあったのだろうと思う。

そして、下宿先が決まり、引っ越しの段取りとなった。

家具は、京都市内で買ったように思う。

家族全員で行って、部屋に家具を入れた。



下宿先から歩いて5分くらいの所に寿司屋があった。

そこで家族皆で昼飯を食べた。

ランチタイムで、串揚げがメインだった。

そして、その後、京都での一人暮らしが始まった。

春、朝目が覚めても一人な事が新鮮だったし驚きでもあった。

寝ても覚めても一人なのだった。

大学で入学式があって、親が来てくれた。

その後、一か月ほど、色々と案内的な行事が執り行われた。

初めての一人暮らしは、とても疲れた。

実家に居る時の3倍は疲れたかもしれない。

(これは後に逆転することになったのだけれど。)



大学があるとは言っても、朝から晩まで居るわけでもなかったので4月中ごろから時間を持て余すようになった。

そして、

5月、

ゴールデンウィークが終わり、街が少し落ち着きを見せてきたころ、

僕はアルバイトに出る事を決めた。

家族で食べに行った寿司屋に面接申し込みの電話を入れた。

何故、寿司屋を選んだかと言うと、高校の時の先輩が大学に通いながら寿司屋で働いてる事を知っていたからだった。

コンビニとかではなくて、寿司屋の方が自分にあっているような気もした。

そこから僕の生活は一気に忙しくなった。



大学の授業に出た後、

下宿先に戻り、5時半ごろには寿司屋に行き、

6時から晩の1時、遅いときは2時位まで働くようになった。

寿司屋では賄いが出て、内容はタコ飯と揚げ物、サラダがメインだった。

営業は10時半ラストオーダーの11時までだったように思う。

職人さんは昼過ぎ頃から入っているようで、帰りはいつも遅かった。

帰り道、コンビニに寄ってお菓子とかパンを買って帰るようになった。

週に4回、多いときは週5回、シフトに入った。



6月頃、

部活を見学に行った。

自分は高校の頃、弓道をやっていたので、大学でも弓道ができるかなぁと思ったのだった。

見学に行って、暫くしてから体験入部のような形をとって大会にも出さしてもらった。

同級生の一人と仲良くなって、下宿も近所だったので、風呂を借りに行ったり、遊びに行ったりするようになった。

その子(以下T)は、アルバイト先を探していたようで、僕が働いている寿司屋を紹介してほしいと言ってきた。

僕は、その子を寿司屋へ連れて行き、同じ場所で働くようになった。



僕の方が2か月ほど先輩だったけれど、職人さんからの扱いとしてはほぼ同じで、歓迎会、年末の飲み会、

一緒に参加した。学部は違っていたけれど、何故だか気が合い、京都市内を一緒に廻ってみたりして過ごした。

その後、大学在学中、そして卒業後数年、Tの世話になるようになった。

色々相談し、また相談を受けたような気もする。

夏はとても忙しくて、部活も寿司屋もなかなかハードではあった。

部活の方は、体育会系のノリは何とか大丈夫だったけれど、遠征費用などもあったりで、続ける事はなく、

自分は寿司屋の方に専念するようになった。

この時期、高卒で地元で働いてい友達が、そこそこ良いクルマに乗るようになっていた。

お金の使い方が、だんだん学生の自分とは違っていっている事が感じられた。



僕は内心その事で焦りも感じていた。

僕は果たしてこのような日々を過ごしていて良いのだろうかと考えたりもした。

学生の本分は勉強なのだけれど、

一年生の時は、授業もあまり面白いのがなくて、寿司屋で働いて、あとは疲れて寝る生活だった。

帰りも遅くて、次第に太っていった。

驚いたことに、わずか一年もしないうちに体重が10キロほど増えていた。

これはやばい、

と思ったのだった。

自分の今後を、寿司屋の一つ上の先輩に相談した。

結果は、「いまやれること、いまだからやれる事をやった方がいいのでは?」という事だった。



そうだな、と思ったし、そうする以外無いなとも思った。自分ではある程度分かっていたのだけれど、

それを他人にも言ってもらいたかったのかもしれない。

秋、冬と不規則な生活にはなっていたけれど、それなりに過ごしていた。

個人的には、高校の頃のなんやかやが気になっていたりもして、夏ごろは高校に顔を出したりもしたのだけれど、

この時期には、そういう事もなくなっていた。


追いかけてくる高校時代の影。

それから逃れる為に、わざと忙しくしていた部分もあるように思う。

この頃、Tと寿司屋の店長の3人でファミレスへ食事に行くことが何回かあった。

何を話していたのかは忘れてしまった。

ファミレスはそうそう行けるところでも無かったので、満腹になるまで食べた。

店長は、両親に仕送りをしているらしく、なかなか苦労されている方のようだった。

僕は、その店長にも、他の職人さんにもよくしてもらって、

それなりに忙しくはあるものの、楽しく過ごすことが出来ていた。

只、太ってしまっていた事が気になっていたのだった。

その頃には、大学の授業の方も少し疎かになっていたかもしれない。

今思うと、まぁそんなもんじゃないかなぁと思うけれど。



寿司屋のアルバイトが無い日は、ジョギングをするようになった。

1時間、余裕がある時は、2時間ほどジョギングをした。

只、この頃のジョギングは痩せる為という事もあったせいか、あまり愉しくはなかった。

11月ごろだったと思うけれど、僕の髪がだいぶ伸びていたので切るように職人さんに言われて、

それなら坊主にしてみるか、

という事で、寿司屋の一つ上の先輩に下宿先に来てもらって、

台所の流しのところでバリカンを使って坊主にしてもらた。

僕が坊主にしたのは、この時が初めてだったのだけれど、評判はいまいちだった。

ただ、お客さんからは顔を覚えてもらえて、

僕が裏で皿洗いをしていると、店に顔を出すように呼ばれるようになったのだった。




2月ごろに、僕は寿司屋のアルバイトを辞めて、

下宿と大学を往復する生活に入った。

この頃は、何かを探していたのだけれど、それもあまり分からないままだった。




この時期は、自炊にも凝るようになって、デザートを作ってみたりもした。

台所は共同で、コインを入れるとガスが使えるコンロがあった。

そこで何度か散髪をしたのだけれど、大家さんに注意された。

大学は春休みに入っていて、時間だけはあった時期だった。

僕は、いつも図書館へ行って、本を借りて読んだり、

机に突っ伏して寝たり、下宿先へ帰ってジョギングしたり、

とにかく、ひたすら無為な日々だった。




その日、空はどんよりと曇っていた。

下宿の屋根のあるスペースは、

床の部分がまだ濡れていたけれど、一応洗濯物を干した後で、

軽く昼飯を食べた。

僕はいつものように大学にでかけて、

駐輪場に自転車を停めた。

図書館へ向かった。

冬の京都は寒い。

底冷えのする中、

身を縮ませて学内を歩いた。

道端には、数枚の何かのビラが雨に濡れた様子で落ちていた。

行き交う人は何人か居たけれど、

知らない人ばかりだった。

僕は、その人たちと目を合せないよう注意しながら歩いて、

その途中で、サークルの勧誘を見かけた。



人影がほとんど無い中、

屋外に立て看板と、机が置いてあって、そのサークルの人と思われる人が一人、

立っていたのだった。



赤と白の勢いのあるデザインのシャツを来た男の人だった。

その人は、寒いためか腕を手前で組んでいた。

どことなく親しみのある雰囲気だった。

寒そうだなぁと思いながらも、僕はその勧誘している人が気になってしまった。

それはサイクリング同好会というサークルだった。



僕はあまりものが続かないタイプではあったけど、

ここなら大丈夫かなぁと思った。



何故だかは分からないけれど。





『夏合宿は北海道へ』


そう、立て看板には書いてあった。

僕は、看板にも魅かれたけれど、

それ以上にそのサークルの代表の人に魅かれた気がする。

僕は、案内の紙を受け取って、図書館に向かった。

その後、

3月が過ぎ、4月になって、僕はそのサイクリング同好会に入る事にしたのだった。

春に立て看板を立てて案内をしていたのは、僕よりも2つ上の先輩で、

僕は2回生、先輩は4回生だった。




2回生になっても、相変わらず授業は面白くなかったけれど、

週に1回あるサークルのミーティングは楽しみだった。

メンバーはすごく少なくて、4人。全員男だった。

同級生が一人、先輩が一人、後輩が一人だった。

僕はそれまで普通のママチャリに乗っていたのだけれど、

他の人は、MTBに乗っていた。

後輩はロードレーサーと言うのに乗っていた。

ゴールデンウィークに琵琶湖を一周するというイベントがあって、

僕はそれまでにMTBを買う事にした。

先輩に連れられて、先輩行きつけの自転車屋さんへ向かい、

そこで店員さんと話したりなんやかやして結局5万円の

その頃の自分にとっては初めての高額な買い物をしたのだった。

先輩は10万くらいするというMTBに乗っていて、それがすごく格好良かったので、

それに似たカラーリングのタイプを選んだ。

琵琶湖一周は、勿論初めての体験だった。

朝、6時過ぎに家を出て、7時位にある自転車屋さんに集合した。

20人から25人くらいの人たちが集まっていて、

軽トラに自転車を載せて、琵琶湖へ向かった。

その日はとても天気が良くて、気持ちのいい風が吹いてた。

先輩がずっと行動を共にしてくれて、僕はそれについて走った。

その頃は、湖畔に幾つものコンビニがあって、所々休憩しながら、

昼過ぎには琵琶湖の半分を走り終えていた。




結局、その日は夕方6時位にゴールしたのだった。

程よい疲れがあって、翌日には筋肉痛になったのだけど、

僕にとっては、その一日が大きなターニングポイントになったのだった。



その後、

4回生の先輩は、就職活動などもあって、ミーティングが無くなる事もあった。

僕は、大学近くのコンビニでアルバイトを始めた。

接客がいかに自分に向いていないか、を思い知る事になるのだけれど、

次第に慣れてきて、そこそこの作業は出来るようになっていった。

夏の合宿は、他の人が行かれないという事になって、無くなりかけたのだけれど、

僕はどうしても北海道に行きたかったので、先輩に相談して

日取りを決め、フェリーの切符を買い、その頃北海道に居た高校の時の先輩、友達に連絡を取り、

準備を進めた。

コンビニでは、幸い2週間ほど休みをもらう事が出来た。

いろいろと準備を進めていたのだけれど、自転車のフレームに取り付ける

キャリアーという部品が無く、そしてハンドルの形状も使い難かった。

先輩は、自分の自転車の部品を付け替えて、旅行に便利なように僕の自転車に手をかけてくれたのだった。

その2週間の旅行は、僕にとっての初めての遠出となった。

先輩が時々携帯に連絡してくれて、安否を気遣ってくれた。

僕は、電話に出ない事があって、いま思うと、甘えていたのかもしれないなぁと反省するしかない。

旅行を終えて、秋になり、

ミーティングはメンバーの都合が合わず、難しくなっていった。




僕は、その頃、後輩に紹介してもらった自転車便のアルバイトを掛けもちしていた。

秋の風と夕暮れは、僕にいろいろな事を考えさせた。

いま思うと何に悩んでいたのか分からないが、

その時はいろいろ悩んでいて、

まぁ大変だった。



僕はお世話になった4回生の人に何かしたいと思った。

特に何も思いつかず、大学近くの居酒屋で、飲み会をする事にした。

来たのは4人だった。

知らない先輩が一人来ていたけれど、その人も同好会の人だったらしい。

そこで色々話をしたのだった。




その日は、肌寒かったけれど、よく晴れていて、星空も見える夜だった。

風がとても冷たかった。

その後、一応同好会のあれこれを引き継いだけれど、メンバーは3人だったし、

活動も出来ていなかった。



春になって、先輩は卒業された。

僕は、暇さえあれば自転車に乗るようになっていた。




Tも自転車を買って一緒に出掛けたりもした。

ただ、その頃も色々と考える事はあった。

そして、春休みの最中、ゼミの募集が始まっている事を知らされた。

僕は、同じ学部内の友達が居なかったので知らなかったのだけれど、

ある人が僕に声をかけてきて、「もうどの先生のゼミに行くか決めた?」と聞いてきたのだった。

僕がまだ決めてない事を知ると、その案内の張り紙のある事を知らせてくれて、

僕はどの先生につくか考えることにした。

僕は社会学科にいたのだけれど、それまでに何度か社会学の授業には出ていたものの、

全部の先生を知っている訳では無かった。




それで、

僕は知っている先生は候補から外して、知らない先生を第一希望に記入した。

理由は、そこのゼミ生の研究内容が比較的自由そうだった事。

他のゼミはある程度ジャンルが決まっているようだった。

3回生になって、ゼミが始まった。

僕はそこで初めて、同じ学部の友達を持つようになった。

ゼミ生の人数は10人くらいで、規模としては小さい方だったらしい。

僕は、研究テーマを決めて、それに取り組むようになった。

発表の時間もあって、僕はそれが毎度毎度緊張したのだけれど、他のゼミ生は辛抱強く聴いてくれたのだった。

夏、僕は、自転車で島根へ行こうと決めた。

日本海側を通って、福井から出発する計画だったが、

それならばと、福岡まで行くことにしたのだった。




僕はゼミの研究に行き詰って、精神的に参ってしまった。

いま思うと、大学在学中は、どうも秋に調子を崩す傾向にあったようだ。

下宿近くの吉野家へTと行き、

僕は自分の状態と、ゼミの研究内容に行き詰っていることなどを話し、

なんとか気を取り直したりする、そんな毎日だった。

何度か開かれる飲み会と、そして友達と会う事で何とか状態を保っていた。

この頃は、一時期モスバーバーガーで深夜のアルバイトをしていた。

そして、4回生になった。



僕は大学だけでなく、一般の図書館へも行くようになった。



この頃、自転車を一台新調して行動範囲が広がっていた。

ロードレーサーと呼ばれるタイプの奴で、

僕はこれを買う事で、またそれに乗る事でだいぶ気分が一新されていたように思う。

4回生でやっと大学生活に慣れる事が出来て、京都で行われる祭りへも出かけてみたりした。

大学生活で一番楽しい年となった。

なによりも、ゼミの研究と卒論の準備と言う、何とも学生らしい取り組みが形になってきた事も嬉しかった。



クルマの運転免許を取る為、地元に帰ってきていた。

そこに、自転車便の仲間から連絡が入った。

社長が病気で亡くなったとの事だった。

まだ34歳くらいだった。

僕は、それですごく吃驚してしまった。

病気をされている事も知らなかったし、

なによりも僕は、自然消滅といった形でその自転車便の仕事に出なくなっていたのだった。



しかし、それを反省しても仕方が無かった。

僕は携帯でその人の葬儀が行われる場所を聞き、電車で京都へと向かった。

車窓から見られる風景には、青々とした田圃と、

帽子をかぶり自転車に乗って走り回る子供らが遊んでいる様子が見てとれた。

京都駅に着き、電車の扉が開くと、

夏の京都盆地特有の、むっとした空気が体を襲った。

市内は沢山の観光客を乗せたバスが行き交い、

学生の乗る原付の音が響いていた。

僕は、家族連れで溢れる様々なイベント会場を横目に、

電話で耳にした住所へと向かった。

よく晴れた青空と入道雲の下、

郊外の一角で、葬儀は行われた。



他のメンバーは前日に参列されたようで、その日は、

自転車便の人間は僕一人だけだった。

社長が依然勤めていた会社の上司と思われる人や、友人と思われる人、

初めてみる人ばかりだった。

僕は、そこで社長と対面した。

穏やかな、優しい顔をされていた。

僕は、それを記憶に焼き付け、

一旦下宿先に帰った後、

地元に戻った。





卒論の仕上げに入り、身の回りが色々と気忙しい雰囲気に包まれた。

僕は、その頃すでに新卒入社を諦め、卒論に専念していた。

Tは、秋の入社試験で大手の会社に内定が決まったと言っていた。

同じゼミ生の中にも、内定を決めた人たちがちらほら出て来ていた。

約10人のゼミ生のうち、内定を決めたのは5人くらい。

残りの5人は、それでも至って平気な様子で、留年を危ぶまれる人もいたけれど、

そこそこ楽しくやっていた。

冬、ある程度、卒論を仕上げた。

サイクリング同好会は、一旦潰してしまうと立ち上げが難しいという事だったので、

顧問の職員の人と相談して、活動休止の手続きをした。



ロッカーの掃除は、職員の人に任せて、僕は連絡ノートやら何やらの整理を済ませた。



ある夜、もうすぐ卒業だという事で、僕はTと一緒に出掛け、

アダルトなビデオがあるレンタルショップへ向かった。

そこで、僕は数年ぶりにみる人影を感じる。

寿司屋で働いていた時に色々相談に乗ってもらった一つ上の先輩だった。

場所が場所だけに、お互い笑うしかなかったのだけれど、

そこで数分話をした。

先輩は、医療事務の仕事をしているらしかった。

それが、その先輩を見た最後だったように思う。

そして、家に帰り、段ボール等に家具をしまったりした。

晴れた日、僕は自転車で出かけた。

JRの円町駅でTを見た。

それが、大学在学中に見た最後のTの姿だった。



Tとは卒業後も何度か連絡を取りあって、一緒に京都で集まって飲みに行ったりもしたのだけれど、

いつの間にか、疎遠になってしまった。



大学で知り合った人とは、まだ連絡が付くかもしれないけれども、

もうお互い昔の人間ではなくなってしまった事を思うと、

諸行無常を感じる。

多分、前に進むためには、

どこかでそれと離れる必要もあるような気がする。

でも、またいつか会えたらなぁ。

会えたらいいなぁと、

僕は、思うのだった。



おしまい。