かもしれないブログ

月一更新です。

今日の机。

私の机の上は、だいたい常に清潔です。

稀にパソコンのキーボードの上に埃が溜まったりもしますが、

そこも週に一回は、掃除をしています。

机の上の左側に、本を重ねて置いています。

積み上げられた本の高さが、

私の頭の中で考えている内容が

反映されます。

現在の高さは約15㎝。

ピーク時は約45㎝でした。

15㎝を超えると、ちょっと考えすぎな気がします。

こないだ、田舎に帰って来まして

色々考える事がありました。

自分の立ち位置について

色々考えている気がします。

やはり選択が難しく、

その気配、タイミングを計っている感じもします。

今は内田樹の本をかなり集中的に読み込んでいます。

街場の現代思想 (文春文庫)

街場の現代思想 (文春文庫)

この中の第5回と第6回が「転職について」と「社内改革について」になっていて、

以下はその抜粋なのですが

…必要なのは、「なぜ自分はいずれ転職したくなるような職場を選択してしまったのか」という問いを自らに向けることである。そのような問いを発する人間だけが、次の選択において失敗する可能性を最小化することができる。私たちは誰でも失敗を犯す。失敗をしない人間はいない。だから重要なのは、「失敗しない」ことではなく、「失敗から学ぶ」ことである。

…失敗の経験は貴重なる「データ」であり、ほとんど「財産」と言ってもよいほどのものなのだが…

これまで正しい決断を積み重ねてきた人間の前には判断に迷う二者択一は出現しない。逆に、これまで何度も決定的な局面で判断を誤ってきた人間の前には、決断を迫る分岐点が繰り返し訪れる。

そして、第11回の「離婚について(承前)」ですが、

 私たちが離婚するのは決して偶然によってではない。
 人間の力をそれほど侮ってはいけない。私たちには「強く念じたこと」を実現させるような能力が備わっている。
 私たちが離婚するのは、配偶者のいずれかが離婚に至る道筋について集中的に念じてきたことの効果である。
 わずかな言葉の行き違いや勘違いから始まった微妙な違和感、やがて日常化するとげとげしい言葉のやりとり、気まずい沈黙とときおりそれを破る怒声に彩られた「結婚生活最後の日々」、離婚届に押印するときにふたりの間に流れる凍りついたような空気……私たちにはそういうものをありありと想像できてしまう能力が備わっており、その能力が私たちを「念じたとおり」の場所へ連れて行ってくれるのである。

離婚は「天から降ってきた」不幸ではない。それはある意味で、私たちが長い時間をかけて作り上げてた「作品」である。私たちが離婚するのは、「離婚にいたる道筋」を私たちが具体的に想像し、あまつさえ、その想像からある種の被虐的な「快感」を得ていたことの帰結なのである。

これを、離婚を離職、配偶者をパートナー、結婚を就労に置き換えるとよく分かるのですが、

 私たちが離職するのは決して偶然によってではない。(中略)
 私たちが離職するのは、パートナーのいずれかが離職に至る道筋について集中的に念じてきたことの効果である。
 わずかな言葉の行き違いや勘違いから始まった微妙な違和感、やがて日常化するとげとげしい言葉のやりとり、気まずい沈黙とときおりそれを破る怒声に彩られた「就労生活最後の日々」、離職届に押印するときにふたりの間に流れる凍りついたような空気……私たちにはそういうものをありありと想像できてしまう能力が備わっており、その能力が私たちを「念じたとおり」の場所へ連れて行ってくれるのである。

離職は「天から降ってきた」不幸ではない。それはある意味で、私たちが長い時間をかけて作り上げてた「作品」である。私たちが離職するのは、「離職にいたる道筋」を私たちが具体的に想像し、あまつさえ、その想像からある種の被虐的な「快感」を得ていたことの帰結なのである。


納得、頷きすぎて首が痛い。

ただ、

目的地にたどりつくまでの道順を繰り返し想像し、その道を当たり前のように歩んでゆく自分の姿をはっきりと想像できる人間は、かなり高い確率でその目的地にたどりつくことができる。「夢を実現する」というのは、そういうことなのである。


この著者の本ではバイクのコーナーリングの話が出てくる(コーナーをきれいに抜けられたイメージを抱けた時に、きれいに抜けられる話)のですが、似たような体験談は僕にもあって、

 何年も前に一度だけやったウェイクボードというやつで、
「波の上にきれいに立つ稲葉浩志」をイメージ出来た時に、きれいに(一瞬でしたが)立つことが出来ました。
 逆に、「波に翻弄される私」をイメージしてしまった時は100%波に沈んでしまいました。





自分の中にあるイメージ。
B'zのPVでありそうな、稲葉がウェイクボードをやってるイメージ。



それを抱けたときに、その通りにすることが出来たような気がします。



自分の場合、すぐに沈んでしまうのですが、それは「我に返る」からだと思います。
自分は稲葉じゃない、と我に返ってしまった時に、波にのまれた気がします。



よって、私はこれから、「稲葉浩志」になって生活しようと思います。