選ぶのが下手。
自分は昔から何かを選ぶということが下手な気がしていて、
うまくいったかなぁと思えるのは、中学で部活を陸上の長距離を選んだことと、
高校で部活を弓道部に選んだことと、大学を京都の佛教大社会学部にして、
Kゼミを選んだことくらいだと思う。
こう書いていくとなかなか成功しているようにも思うな。
なんでだろう。
選ぶ事の下手さが際立ってきたのは、おそらく大学を卒業してからで、
そこから先は右往左往している印象がある。
自分の場合、なぜそういう事になるかというと、
受注生産方式みたいな、来た事には対処するけど、自分から何かを積極的に獲得しに行くわけではない
という性質があって、
それで後手後手になっている印象がある。
例えば、職安に行ったとして、いろいろあるのだけど、そのうち面倒になってくる。
それでエイヤと決めて飛び込んでいくのだけれど、それでいい目を見た記憶がないので、
今等はとにかくそういう風に飛び込む気もなくなっている気がする。
沢山並べられると、疲れてしまって、選択眼が疲弊した時にもう何でもいいやと思って
選ぶ。それが何と言うか一か八かというか、まぁ賭けみたいなもんになってる。
特に遠方にある場合は、もうそれだけで大変なもんだ。
そして、最悪なのはへろへろになった状態の時に、第三者に選択を託すという行動に出がちな事。
これは、過去にそういう型があって、今回もなんというかそういう具合に流れそうな気がしていて、
それは今回は避けたいところではある。
何というか、
これまでと同じループではないところへ向かいたい、
或いは、スパイラルだとして、一段でも高い所へ向かいたいという気持ちがあって、
それは、自分だけでなく、自分の親や、祖父母の代からの何か、
そういうものが流れている気がしていて、
その為には、外部の情報と言うのが不可欠であって、
でも、それを得ようとするには、リスクが高いという事がある。
リスクと言う意味では、やはり顔見知りで、
どういう雰囲気かわかっておくというのは大事だと思うのだけれど、
どうも自分の行動パターンとしては、何も見えないところへエイヤと飛び込むタイプな気がする。
そして、経験則として、その飛び込んだ先は茨の道なのである。
やれやれ。
で、それを見極めるための何かが得られないかと本を読んでいるのだけれど、
その本の内容によっては、逆効果と言うか頭が痛くなったりもして大変だ。
ただ、今回思ったのは、もうそういう収入減を云々するのではなくて、
自分の中に違う指標を作ってしまった方が進みよいような気がしたという事。
具体的には、毎月自分の収入から何割かを募金する、その為だけに生きていくというのも有な気がしたということだった。
自分の事に目を向けるから辛いのであって、外に目を向けて、
多少なりとも、役に立てて、そして自分にも何か張り合いがでるのならば、
それでいいんじゃないかなぁと思った。
そうすれば、どこに属していようと、何をしていようと、
一生一人だろうと、貧しかろうと、
多分、何か自分が生きたという実感というか、
そういうものは残るんじゃないだろうか。
そういう事を考えたのだった。
だから、今の所の考えとしては、
四月以降は、どこかでアルバイトをしつつ、募金しつつして、
そして、京都にうつり、何か仕事を探し、働き、募金しつつ、
親が京都を離れる際は、なんなら自分一人だけでも京都に残って、
そのまま、やっていくのもいいんじゃないだろうか。
貧しいかもしれないけれど、そういう生き方が僕にはあっているような気がした。
勿論、途中で何があるかは分からないけれど、
それを決めてしまえば、自由度は増すような気がした。
昨日の日記は、なんか最後のフォントが大きすぎて、ちょっと怖いですね。