文藝春秋を読んだ。
自分の場合、何か不安があったり片づけられない何かがある時に本を読む傾向があるようで、
自分の机の上の本の量と、自分の抱える不安と言うか、もやっとしたものの量は正比例するように思う。
今、机の上にはこれまで積み重ねてきた以上の本が積みあがっている。
そんな中で、文藝春秋3月臨時増刊号というのを読んだ。
読書ばかりしている自分に辟易しても居るのだけれど、
もやっとしたものをもやもやを考えるよりは、何か外に内に、目を向けて視点をずれした方が精神衛生上良いような気がする。
文藝春秋増刊 3.11から一年 作家100人の言葉 2012年 03月号 [雑誌]
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2012/03/01
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100人の作家が昨年の震災について語った事が載っていた。
100人全員の文章を読んだ訳ではないけれど、だいたいベクトルは同じ方向を向いていたのだけれど、
その切り口には2種類あるように感じた。
マクロとミクロというか、歴史からその出来事をどう見るかという事と、
もう一つが、自分がその時何をしていたのか、という事だった。
やっぱり痛烈に何かを批判している文章もあって、それはそうなのだけれど、何か遣り切れないというか、
批判は誰でもできるんだけど、それをどう捉えていくかという段階で、センスが試されている気がした。
自分も当事者だという意識というか、
何も批判しない、震災も人災も、自分自身も批判しない文章と言うのがあって、
僕はそれに魅かれた。
自分などは、なぜそういう性質を生まれ持ったのか先天的なのか後天的なのか、
これはこれから改善していけるのか分からないのだけれど、
とにかく何かを痛烈に批判しがちで、反体制というかそんな格好いいものじゃないけれど、
Aというものがあれば、A´を出し、Bというものが出れば、B´を出すみたいな
天邪鬼体質みたいなものがある。
だから、何かを批判している文章と言うのは、読んでいても手応えがないというか、
するっと呑み込めるのだけれど、
何も批判しない文章と言うのは、どこかぬるっとした重さがあって、
喉を通り抜けない感じがした。
自分はいま、また岐路に立っていて、
(岐路に立ちすぎな気もするけど笑)
どこにいこうかなぁ、どこにも行かなくてもいいのかなというのがある。
自分は、己の意志だけで何かを決める事が苦手で、周囲の状況に応じて
あっちに行ったりこっちに行ったりする。
例えば、ある人がAをすれば、じゃあ自分はBにしようかな、という感じで
常に後手に回っているような気がする。
そういうと、何か後始末をしているような気もするし、善人ぶってる気もするし、
格好つけてる気もする。
でも、それはたぶん言いわけであって、本当は自分で決めない事で、
責任を放棄しているのではなかろうか、という気もする。
選択肢としては三つくらいあって、
一つが残る。一つが南へ行く。もう一つが西へ行く。
という感じで、でもそう考えているうちに何かあるかもしれないし、
何もないかもしれない。
あぁ無常。
こんな事を考えているからなのか肩が凝ってきた。
何か大きな目標というか、
中心がいるように感じた。
物事が変動して行く中で、自分の立ち位置を固定せずに、
居つかずに、それでもやっていくという事は可能なのか。