かもしれないブログ

月一更新です。

血税・お金の本質。

以前、お金の性質について考えた。

お金は、情報・言葉としての側面がある一方で、

でも実際は血であり、肉ではないか、と考えた。

でも、その考え方はもう既に日本語として生きていた。

「血税」という言葉がある。

お金を出す、という事は、血を流すという事だという考え方があるらしい。

そう、血税って言葉を何で忘れていたのだろう。

毎月・毎月・税を徴収されてるというのに、

何で気が付かなかったのだろう。

ケツゼイを変換すると、一発で「血税」と出るじゃないか。

日本は海外の危険な地域に対して援助に人は出さないが、金は出す。

と言われたことがある。

でも、それも金を出しているんだから、イコール血を流している

という事だいう考え方も出来る。

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自分の書く文章は、

自分が読んでみても、誤字脱字も多く、文章の流れ自体がガタガタだ。

自分が読んでそうなのだから、他の人が読んだらさぞ読みづらいだろうな、と思う。

何せ、思いついたことをポンポンと書いて、校正・読み直しをせずにアップしているからだ。

きれいな文章・きれいな言葉。

でも、それだけではない、人間の持つ部分もあって、

それを隠すというか、無いかのように表現するのではなくて、

それを認めた上での文章。そんなものが書ければなと思う。

それを隠すことと、無視することは違う。

だから、無視した文章は、どこかにそういう軋みみたいなのが現れるんじゃないだろうか。

僕が読みたいのは、きれいに装飾された着飾った文章ではなく、

生の人間が書いた、それでいてそれを超えようとするというか、そういう人間が見える文章が読みたい。

自分が考えた事は、すごい発見のように思える。

自分の場合の「お金と血」の事に関してもそうだ。

実際は、もう既にすべての考え方は出し尽くされているのかもしれない。

でも、それも意識下にあるものを表に出してみて、

それを自分で見てみて、

世の中を見ると、それは実際にある、と。

そんな事、知ってたよ。

そんな事、知ってるよ。

と言われるかもしれない。

でも、それでも前に進めているんじゃないだろうか。

少なくとも、自分の中に何があったのか

自分が何を考えどう表現できるのか

という部分は分かるし、

それを表に出していくことで、次に考える事、思う事に進めるような気がする。

最近は、

ドストエフスキーの悪霊と

坂口安吾

黒柳徹子

を読んでいる。

それらを組み合わせてなにが出来るか、何も出来ないか。

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

悪霊 (上巻) (新潮文庫)

堕落論 (角川文庫)

堕落論 (角川文庫)

小さいときから考えてきたこと (新潮文庫)

小さいときから考えてきたこと (新潮文庫)



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人の入れ替わりが激しい。

人の入れ替わりが激しいと、

また一からはじめないといけない。

教えないといけない。

そのために、どれだけのコストがかかっているのか。

これは、いま居る仕事場に関してもそうだし、自分自身に関してもそうなのだ。

自分自身に関しては、そういう環境を見つけ出す才がある、というか、

もっとよい環境を嗅ぎ出す能力に欠けているのだろうと思う。

うちに来ないか、と言われて、そこへ行ったとしても、

自分の中にある何かがある限り、それは続くような気もする。

問題は、放っておくだけでは解決しない事(人間の目で見る原発問題など)

と、

放っておいたら、環境自体が変化して解決しました

って事もある。

自分の場合は、後者だろうか。

水星は足が速い星らしく、そしてまた順行・逆行を短期間に繰り返す星らしい。

いまの自分は、まるで水星みたいな感じだなーと思った。

多分、シフト勤務のせいだと思う。