かもしれないブログ

月一更新です。

意図せざる結果としての現実。

これをやろうと思っていたのに、意図せず、ああなってしまったり、

逆に、

ああしようと思っていたのに、意図せず、こうなってしまったり。

こういう事は、世の中往々にしてあるんじゃないだろうか。

普段からネガティブな部分に目を向けていると、失敗した時に、

やはりそこに目が行く。

やっぱりだ、言わんこっちゃない。

でも、本当に、

本当にそれが原因だと特定するのは原理上不可能じゃないだろうか。

人為的なミスの場合は特に。

確実に、これが原因だ、と

特定するのは困難を極める。

普段から、あの人苦手だと思っていれば、

やはりそういう所を目にする度に

「やっぱりね」となる。

逆もある。

要は、最初のマインドがどうあるかで

その後に来るものがほぼ決まる事ってあるんじゃないか。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読んだ。

生み出す意図が無かったにも関わらず、それが生み出され、

そして、生み出したものに今度は逆に支配される。

プロテスタントが資本主義を生み出した訳では無いらしいけれども、

世の中には、

意図せずして、生み出してしまい、今度は逆にそれに支配される。

それ無しでは、それを維持しなければ、今度は自分が脅かされる。

そういう事ってある気がする。

生み出したものの手を離れ、独り歩きし、生み出した当人は不要とされることもある。

我武者羅に戦うか、或いは、隠居か。

この二者択一しか世の中には無いのだろうか。

戦える心でいないと、リングには立たせてもらえないけれども、

だからと言って、

リング上で奴隷のように戦うのは嫌だと思う。


それは戦っているんじゃない。


戦わされているんだ。


戦っている、と思い込まされているだけかもしれない。


為末大氏によると、

短距離は、決められた距離をどれだけ速く走れるか、という事を選手は忘れる時があるらしい。

仕事も同様に、要はどれだけの利益を上げられたか、これが本質であり、これだけが大事なのだ。

どれだけ残業しただの(残業は時間も経費も無駄)、どれだけ辛い思いをしただの、

そんな事は本来どうだって良いはずだ。

辛い思いをする為に働くんじゃない。

お金を稼ぐために、あるいは待ってくれるお客さんの為に働くんじゃないのか。

もともと大切な人へのプレゼントを買うために働き出したのに、

いざ働いてみると、忙しすぎて大事な人と会う時間も、思う時間もそっちのけ。

そういう本末転倒な事、よくある事だけに注意しないと。

奴隷になっていないか。

クルマの、家の、ローンの奴隷になっていないか。

増やすべきなのは、働く時間ではなくて、

大切な人と過ごす時間の質じゃないか。

お金を何のために儲けるのか。

安心の為に働くのなら、安心していい。

安心できる日、なんてのは、お金とは本来関係が無いからだ。

もっと、もっと。

その移り変わる市場の志向に振り回されるのは、何の為か。

よく考えないといけない。

勝つために戦え!

勝つために戦え!

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)